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科学

科学で役立ちそうな哲学の結論

今回は、科学で役立ちそうな哲学の結論を紹介し、少し変わったことを考えてみたいと思います。

認識に関する哲学の結論

まず、竹田青嗣著『哲学とは何か』(NHKブックス, 2020)に書いてある「人間の認識の本質」を私なりに短くまとめてみます。

人間は誰も脳(内界)で生成される外界に対する認識(主観)が、外界の「真の姿」(客観)と一致しているかどうか証明できないそうです。

それゆえ、人間の全ての認識は主観的であることを越えられず、相対的なものである他ないそうです。

言い換えれば、

どんな生き物も自分の認識装置を通してのみ外界を認識する

そうです。

例えば、人間ならば知覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など)を通じて脳で知覚情報を統合し外界に対するイメージを脳内で作り上げることで外界を認識しいるようです。

一方で、例えばダニは嗅覚、触覚、温覚を通じて外界を認識しているそうです。(なお、ダニのような節足動物にも脳の機能を果たす神経回路構造つまり脳があるようです。)

さらに、

それぞれの生き物はそれぞれの「生の力」(欲望・身体のありよう)に応じて(相関的に)最も適切な世界認識をもつ

そうです。

従って、人間には人間の認識装置(欲望・身体)に従った世界認識しかできず、それが世界の「真の姿」または「完全な姿」を捉えているかは誰にも分からないということのようです。

つまり、人間よりも認識能力(認識レベル)が高い宇宙生命体が存在するならば、人間とは世界認識(欲望・身体)が異なる可能性が高いということだと思います。

そして、

そもそも認識とは、個々の生き物のうちでその欲望‐身体(=力)と相関的に生成される、ひとつの「世界分節」にほかならない

そうです。ここで「世界分節」とは、世界を意味のまとまりとして区切ること、つまりは世界を解釈・把握すること(世界からの意味の読み取りや世界への意味付け)であるようです。

哲学の結論を科学に役立ててみる

上述の哲学の結論は、科学者にとっても大変興味深いと思います。

そもそも人間には科学的(客観的)に宇宙や生命の全てを解明できるだけの認識装置(認識能力)が備わっているのでしょうか。

もし備わっていないならば、いずれ科学的発展の限界(人間の客観的な認識能力の限界)に到達することになると予想されます。

しかしながら、ここで宇宙や生命の全てを解明できるだけの認識能力とは、何でしょうか。

つまり、人間には認識できないモノが外界に存在しているということでしょうか。又は、宇宙や生命は人間が認識できるモノだけで成り立ってはいないということでしょうか。

ただ、あらゆる測定機器を用いても人間に認識できないモノは、科学的には外界に存在しないに等しいとも考えられます。

よって、人間は宇宙や生命の全てを解明できるだけの認識能力をもっていると考えることもできると思います。

ところで、嗅覚、触覚、温覚しかないダニは、突然、物差しで潰された時にどのように感じているのでしょうか。

冷たい物体が、突然、現れ、強い力で体を圧迫して来たと感じるのかもしれません。

ただ、冷たい物体(物差し)がどのようなものなのか、なぜ潰されたのかは全く分からないのかもしれません。

やはり、ダニには、宇宙や生命の全てを解明することは不可能だと考えられます。

人間にも、理由は分からないけれど、そうなっているモノはあると思います。

例えば、物質からなる脳が、どのように物質ではない意識(心、精神、意志)を生み出すのかは科学的には解明されていません。

逆に、物質ではない意識(心、精神、意志)が、どのように物質である身体を動かしているのも解明されていません。

しかし、例えば、人間よりも認識レベルが高い宇宙生命体は、この意識生成のメカニズム(仕組み)を理解しているかもしれません。

ただ、人間がダニに潰された理由を伝えられないのと同様に、この宇宙生命体は人間にそのメカニズムを伝えられないかもしれません。

つまり、人間にはそのメカニズムを理解するだけの認識装置をもっていないと考えることもできます。

さらに、原子や分子(高分子)からどのように原始生命が誕生したのかは、科学的に解明されていませんが、これも人間にはそのメカニズムを理解するだけの認識装置(時間スケール・時間感覚を含む)をもっていないからだと考えることもできます。

つまり、科学の限界は、人間の認識装置(測定機器を含む)の限界であると言うこともできると思います。

認識レベルは上げられるのか

それでは、どのようにすれば、人間は認識能力つまり認識レベルを上げられるのでしょうか。

人間自体の進化

例えば、新たな知覚を手に入れるにはどうすれば良いのでしょうか。

1つは、人間を進化させることだと思いますが、現在、地球上で生態系の頂点に立つ人間がこれ以上進化するのは難しいのかもしれません。

ただ、例えば、ウィルスによる被害が続けば、人間の害になるウィルスを感知できる能力や害になるウィルスに対して直ちに抗体を体内で生成できる能力が進化するかもしれません。

しかしながら、このような進化は認識にとってあまり有効な進化ではないかもしれません。人間がこれまで認識できなかったモノを認識できるようになる進化が重要です。(害になるウィルスを感知できる能力も凄いとは思いますが。)

例えば、生き物が出す「オーラ」や「気」を感知できる能力が身に付けば、人間は新たな認識レベルに到達したと考えても良いかもしれません。

ここで、「オーラ」や「気」とは、その生き物の「心の状態」や「やる気のようなエネルギーの状態」などを表しているとします。

数学の進化

もう1つの方法は、数学を進化されることだと思います。

数学というのは、ある意味で、人間のもつ客観認識を意識的に取り出したものとも考えられるので、人間の認識レベルに強く関係していると考えられます。

ただ、人間の認識自体は進化していないのに、数学だけを進化させることができるのかは疑問が残るところです。

人間のもつ客観認識がまだ完全に数学として表現され切れていないならば、新たな数学理論が作り出される可能性はまだまだあると思います。

数学と物理学の発展により、新たな素粒子などが発見されれば、人間は新たな認識レベルに到達したと考えても良いかもしれません。

新たな視点や認識:家(建物)は生命か

一般に、生命は次のように定義されているようです。

生命には、

  1. 外界と自己を仕切る境界(=)がある.
  2. 外界から物質を取り入れて、自己内でエネルギーに変換したり、自己を再構成するための要素に変換する機能(=代謝の機能)がある.
  3. 自己と同じ生命体を生み出す機能(=自己複製の機能)がある.
  4. 外界の環境に応じて自己を進化させる機能がある.

それでは、生命である人間が住んでいる家は、生命でしょうか。

1) 確かに、家には、家の中と家の外を仕切る壁があります。

2) 家には、人間が出入りしており、台風などで家が壊された場合には、人間が家を修理します。

3) 人間が増えるのと同時に、人間は家を次々に建てて行きます。

4) 人間は家を外界の環境に応じて進化させて来ました。

人間が媒介しているから、家が生命の定義を満たしているだけで、家自体では「代謝」も「自己複製」も「進化」もできないと反論される方が多いと思います。

ただ、家には人間が認識できません。

人間も自分で「代謝」や「自己複製」や「進化」をしていると考えていますが、実は、人間には認識できない「モノ」が人間を生命たらしめているのかもしれません。

人間は、その「モノ」にとっては住み家にすぎないのかもしれません。

例えば、魂なるモノ(精神的エネルギー)が空間に漂っており、人間の受精卵にとりつくことで、人間は生命として活動できるのかもしれません。

しかしながら、科学的には肉体(物質)と精神(意識)は分離できないと考えられています。

ただ、「世界」には物質世界と同じくらい充実した精神世界があるのかもしれません。そして、物質世界と精神世界を繋(つな)ぐ何らかの超自然的な原理や法則が存在するのかもしれません。

実際に、物質である生物は、精神世界の魂やエネルギーを呼び出す装置であるとも考えられなくもないです。

逆に、精神世界の魂やエネルギーが物質世界の物質に作用することも、特殊な条件が整えば、あり得るのかもしれません。

すみません、話がかなり非科学的で怪しくなって来たのでこの辺で止めときます。

おまけ:人間にとって「経験」とは何か

哲学によれば、それぞれの生き物はそれぞれの「生の力」(欲望・身体の有り様)に応じて最も適切な世界認識をもつそうですが、ここで「欲望」とは何でしょうか。

つまり、なぜ人間は欲望をもつのでしょうか。

自分の生きたいように「生きるため」でしょうか。

では、なぜ人間は生きなければならないのでしょうか。

死ぬのが嫌だから、殺されるのが嫌だからと、その理由は沢山あると思いますが、ここでは、次のように言い換えてみます。

なぜ人間は存在するのでしょうか。

哲学(上記の『哲学とは何か』)によると、普遍認識(=誰もが共通に納得できる認識)という観点からは、物事が存在する理由については一切答えられないようです。

ゆえに、ここでは、取り敢えず「人間は自分で生きる意味を見出すために存在している」と主観的に仮定して問答を進めたいと思います。

それでは、生きる意味を見出すためには、どうすれば良いでしょうか。

多くの人間には、生きる意味を考える時がやって来ると思いますが、その時に参照するのが、自分が経験して来たこと(認識して来たこと)だと思います。

ゆえに、生きる意味を見出すためには、経験することが大切になるのかもしれません。

ただ、経験によって、逆に生きる意味を一時的に見失うこともあると思いますが、好転させるには、さらに経験するしかないのかもしれません。

それでは、経験とは、何なのでしょうか。

自分の欲望・関心・運命・状況に応じて「自分の世界(自分の考え)」に意味を与えてくれるモノが経験なのかもしれません。

ただ、そもそも人間はなぜ意味を知りたがるのでしょうか。

意味が分かると、納得感や確信を得ることができ、不確定なモノが自分の中から消えるからでしょうか。

不確定だらけの人間が、自分の中の不確定なモノを確定させて行くことが「経験」であり、そのような「経験」の積み重ねが不確定な「生きる意味」をも確定させてしまうのかもしれません。