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科学

身体の動きが先で意識による把握が後【脳科学】

今回は、脳科学者の方とコピーライターの方の対談記事を参考にして人間の脳の性質について考えてみたいと思います。

身体と脳の秘密

本記事は、脳科学者の方とコピーライターの方の対談記事を参考にしています(そのYouTube版はこちらになります)

生物の約40億年の進化史を考えると、生物にはまず身体だけだった長い時代(約35億年)があって、約5億年前に脳なる統括役が作り出されたそうです。

ゆえに、実は身体には驚くべき能力が隠されており、その能力を持って環境(外界)とやり取り(相互作用)しているようですが、そのやり取りの全てが脳によって意識化されている訳ではないようです。

例えば、人間に一瞬だけ1円かもしくは100円のどちらか一方の画像を見せます。

もしも100円の画像を見た場合は、その人に有益なことが起こる設定となっています。

一瞬なので、人間の意識はその画像が1円なのか100円なのか把握できないのですが、実は身体の方は、その画像が1円なのか100円なのかが区別できているそうなのです。

100円の画像を見た場合は、身体のある部分が意識よりも先に反応していたそうです。

つまり、視覚情報が脳で処理・統合され、意識に昇る前に、身体の方が無意識的な回路を使い視覚情報を基に次の動き(反応)に出ていたようです。

このように意識は正解を知らなくても身体は正解を知っていると言うことがあるようです。

言わば、理由は分かならいけれども、正解は分かっているような状態です。

このことから、脳の意識は、身体の動き(反応)を後付けで解釈するものであると捉えることもできるそうです。

確かに、意識よりも先に、体に反応(サイン)が出ていることがあると思います。

例えば、プールで唇(くちびる)が真っ青になっていたり、恐怖映画を見ていて急に鳥肌が立ったり、鬼太郎の髪の毛が妖気を感じると逆立ったり、などです。

結局のところ、人間の動きや行動は、全てが脳で意識的に管理されている訳ではないと言うことだと思います。

つまりは、必ずしも意識が先で(意識が支配者で)、身体がそれに従属するものである訳ではないようです。

そして、人間には意識に昇らない動きや行動もあり、それらの無意識な動きは、脳の中で「人間的な意味付け」がなされる前の原物であるため、しばしば矛盾を引き起こすこともあるそうです。

つまりは、人間の行動は、常に論理的に説明できるとは限らないそうです。

人間には、その行動や思考において、「モヤモヤした部分」(言わば外界と身体の相互作用そのもの?)があるということだと思います。

ただ、その「モヤモヤした部分」は、時に、理由は分からないが、正解をもたらしてくれるものであると言うことだと思います。

このことは何となくAIの構造と似ているような気がします。AIも人間の問い掛けに対してメカニズム(原因や理由)は解明してくれませんが、答え(正解)は出してくれます。

科学者を遊ばせられる社会

科学者の場合も、初めから自分の研究の意義や価値を必ずしも論理的に説明できるとは限らないようです。

つまり、研究をしていて蓄積されたモヤモヤ(経験)が、何となくある直感や方向性(ワクワク感)を示しており、その直感的なワクワクに従って、研究を進めただけで、初めから何か明確な意義や目的があった訳ではない、という様なことが科学的な大発見の中にはあるようです。

つまり、科学者は必ずしも仮説と検証を繰り返すという論理的なプロセスで発見をしたり成果を出したりしている訳ではないと言うことです。

よって、科学者に研究計画書を提出させ研究費の争奪(そうだつ)戦を強いるよりも、科学者に自由に遊ぶ時間(=自由に研究する時間)を与えた方が良いこともあるのではないかと言うことだと思います。

現在、学術的な研究の多くは、税金で賄(まかな)われており、科学者には自分の研究の説明責任が求められています。

しかしながら、後付け的な論理や説明よりも、未知の力を秘めた直感を優先した方が、脳科学的には理にかなっていると言うことかもしれません。

つまりは、理屈や説明よりも、まず先に優れた科学者を自由に遊ばせた方が(=自由に探究させた方)面白い研究成果が出ることもあるのではないかと言うことだと思います。

直感は、感覚的なものなので言葉で上手く説明できないもの(モヤモヤした物)であるようですが、なぜか正解に辿(たど)り着いてしまうこともあるそうです。

これは、上述した「意識つまり論理」よりも「身体つまり直感」の方が正解を知っていることもあることに対応付けられるようです。

つまりは、言葉で上手く説明できないモヤモヤした直感を研究計画書にすることはできないと言うことだと思います。

これは研究に限らず、ビジネスでも同じようなことがあるそうです。

余談

現在のところ、日本の科学者はかつてよりも自由に研究できる時間が少なくなっていますが、そこには、科学者だけ自分の好きなことばかりやっていてズルいと言った(政府や官庁の?)心情があるのかもしれません。

確かに、大学の教員の中にも、教育・運営重視型の方もいらっしゃれば、研究重視型の方もいらっしゃいます。

海外の大学では、「学生に教育する教員」と「研究をする教員」を明確に分けているところもあるそうです。

身体が先で脳(心)が後

現在の常識では、脳つまり人間の意志が身体をコントロールすると考えられていますが、脳科学的にはこの常識はかなり疑わしいようです。

脳科学的には、まず「外界と身体の相互作用」や「身体の動き(反応)」が先にあって、次に脳がそれらの作用や動きに意味や解釈を後付けで与えると考えることがあるようです。

「身体が動くので、脳も動く」つまりは「体を動かすと、やる気も出る」という順番があるようです。

ゆえに、脳だけでやる気などの「気持ち」が生まれる訳ではないようです。

ちなみに、生命科学では、意識だけを自分の身体から他の物(例えば機械)に移した個体は、その意識の持ち主そのものではなく、新たな別の個体であると見なされるようです(もしもそのような移植が可能ならばの話になりますが)。

つまりは、身体と脳は常にセットで(分離不可能で)、脳の意識を動かすのは、身体であると言うことをないがしろにしてはいけないようです。

実際に、脳の意識は、身体的な刺激や身体的な状態を基に、外界や対象を把握(はあく)するようです。

例えば、エレベーターの中で、温かいコーヒーを持っていた人の方が、冷たいコーヒーを持っていた人よりも、印象が良いようです。

また、作り笑顔でも、本当に心が楽しくなって来ることもあるそうです。

また、ふんぞり返って人の話を聞くよりも、前のめりになって話を聞いた方が、同じ話を聞いたとしても面白さが上がるようです。

また、自分の身体を動かして、積極的に情報を取りに行った時の方が、脳が敏感に反応するそうです。

確かに、受動的な学習よりも、能動的な学習の方が身に付き方が違うような気がします。これは仕事でも研究でも同じかもしれません。

また、数学者や哲学者にも散歩好きな方がいらっしゃいますが、これも身体を動かすことで、思考や気分を活性化させようとしているのかもしれません。

また、アニメの世界に出て来るようなVRゲーム、つまり視覚も聴覚も使わずに脳に直接アクセスするようなVRゲームは、身体を動かさないので、プレーしても上手く気分や気持ちが高揚しないのかもしれません。

ちなみに、哲学でも、外界と身体の相互作用によって得た知覚的な確信を、つまり例えば目の前にリンゴが見えてしまっているという主観的な確信を、どんなに疑っても疑えないものとして、思考の基盤や始発点に用いています。

余談:なぜその順番は逆転したのか、システムの謎.

それではなぜ、「身体→精神」という順番から「精神→身体」という順番になったかのような日常的な感覚があるのでしょうか。

これは、前回の構造主義の記事でお話した「システムの特徴」とやや無理やり関係付けられるかもしれません。

つまり、システムと言うものは、一度形成されてしまうと、その起源(形成された経緯や理由)はどうでも良くなってしまうと言う特徴があるようなのです。

そして、脳という統括的なシステムができてしまえば、その構成要素である身体はそれに従う他なくなってしまうと言うシステムの特徴もあるようなのです。

このような「システムの特徴」のために、「脳(心)が先で身体が後」と言うような感覚が生まれたのかもしれません。

この逆転感覚は、生命システムの問題だけではなく、人間社会の影響もあるようですが。

おまけ:モヤモヤした物

人間には、外界と身体の相互作用によってもたらされた「モヤモヤした物」(経験?)を何んとか言葉にしようとする傾向がある一方で、「モヤモヤした物」をモヤモヤしたまま感受できる能力もあるようです。

言葉を話す前の人類は、「モヤモヤした物」をモヤモヤしたまま感受して来たようです。

「モヤモヤした物」の中に「表現の原初」や「問題の正解」が隠されていることもあるためか、芸術や哲学などでは、その「モヤモヤした物」を徹底的に追究しています。

一部の哲学書が難解なのも、「モヤモヤした物」を何んとか表現しようとしているからかもしれません。又は、モヤモヤしたまま伝えようとしているからかもしれません。

ここで、さらに重要なことは、外界つまり環境は常に変化すると言うことです。

つまり、外界と身体の相互作用も常に変化し、その作用の後付け的な解釈の結果である意識(=気持ち)も常に変化することになると推測されます。

ただ、人間の「気持ち」は外界の変化と比べると割と安定しているような気もします。

もしかすると、記憶というのは、この気持ちの変化を和らげるものの1つなのかもしれません。

いずれにしても、そもそもの外界や環境の変化が小さければ、人の心は落ち着くのかもしれません。

確かに、変化が激しい現代社会では、人の心は落ち着かない(安心感がない)のかもしれません。