今回は、複雑系科学の本を読んで、カオスや脳そして数学について考えてみたいと思います。
カオスについて
カオスや脳そして数学については、津田一郎(著)『心はすべて数学である (文庫版)』(文藝春秋, 2023)に分かり易く書かれています。
本記事は、この本を参考にしています。
カオスとは
その本によると、カオスとは、ニュートンの運動方程式のような決定論的な法則によって、物の動きが予め決まっているにもかかわらず、その動きを予測することができない運動のことを指すそうです。
なお、決定論とは、原因と結果の法則によって、ある原因によってその後の結果が全てが決まってしまうと言う考え方です。
カオスの例としては、急流(川)を流れて行く一枚の木の葉の運動(動き)がカオスになるそうです。
急流で木の葉は、波や渦に巻き込まれたり障害物に当ったり川の勾配で急に勢い付いたりするので、その動きを予想することは困難であるそうです。
木の葉の位置が少し変化しただけで、その後の動きはまるで変わってしまうそうです。
このように、小さな変化が後の大きな変化をもたらすことが、カオスの特徴であるそうです。
この例は、脳の中のカオス現象を理解する際の良い助けになると思います。
- 「急流」 =脳の神経回路
- 「木の葉」=脳内の電気信号
ただ、その本によると、実は、カオスを定義することは難しく、上述の様な大まかな定義から専門的で複雑な定義までカオスには様々な定義があるそうです。
その本でも、カオスは色々な表現で紹介されています。
カオスとは、極めて複雑で捉えがたい現象。
カオスとは、決定論的な法則が生み出す予測不能で確率論的な現象。
カオスとは、秩序と無秩序を共に含む深淵。
カオスとは、非周期的で極めて複雑な運動。その運動は予測できない複雑なものになる。
カオスでは、点の位置は、予測できない、とても複雑な動きをする。
原因が決定論的であっても結果は決定論的でないと言うことがあり得る、それがカオス。
決定論的な方程式から予測不能な異次元の怪物のような物が生まれることがある、その怪物のような物がカオス。
なお、たとえ決定論的であっても、そこにカオス(三体問題など)が内在していれば、偶然性が生まれて来るそうです。
そう言われると、偶然性とは如何(いか)にして生まれるのでしょうか。人間が因果関係を追うことができない物事が偶然性なのでしょうか。
また、カオスは、煙(けむり)のような拡散過程よりも圧倒的に速く物質(粒子)を混ぜることができるそうです。
例えば、紅茶に角砂糖を入れて棒でかき混ぜると、カオスが発生し、角砂糖は直ぐに溶けるそうです。
また、カオスは、幾何学的な軌道の集まりとして捉えることができるそうです。
ただ、カオスの動きは、僅(わず)かな変化(計算誤差)に敏感であるため、数値的なシミュレーションができないそうです。
カオスは、ほんの少しのずれがどんどん拡大されて行って、将来の振る舞いが正確に予測できないと言う性質を持つそうです。
カオスであると数学的に証明されたり、カオスのシミュレーションができたりするのは、カオスの中のほんの一部であるそうです。
つまり、コンピュータでは、カオスの実体を捉えることはできず、あくまで近似にしかなり得ないのだそうです。
ゆえに、カオス現象(カオスが関わる問題)においては、
- 解析的に問題が解けない
- 数値的な解(コンピュータによる計算)は当てにならない
と言うことになるそうです。
カオス(カオス現象)は、数学では上手く表現・記述できないので、超越的な性質を持っていると考えられるそうです。
ただ、数学的に上手く記述できなくても、人間はカオスと呼ばれる複雑な動き(運動・現象)は、認識できると言うことになります。
また、数学的な言い方をすれば、殆(ほとん)どのカオスは、計算した軌道の集合では追跡できないと言う性質を持っているそうです。
つまり、カオスは、計算不可能であり、その意味において「不可能問題」を内包しているそうです。
また、カオスには、時々刻々と変化するプロセスの中に情報を蓄える性質があるそうです。
計算不可能であるにもかかわらず、なぜそのような性質が発見されたのか不思議ですが、数学モデル(近似)を使った研究により、そのような性質が明らかになったようです。
さらに、カオスには、情報の編集機能があることも明らかになったそうです。
つまり、カオスは、情報を加工したり保持したり、さらには新たに生成したりすることができるのだそうです。
どう言うことでしょうか。カオスが主語なのでしょうか、それとも、脳のようなネットワークシステムでは、情報が加工されたり保持されたりする際に、カオス現象が現れるということでしょうか。
また、カオスそのものは複雑過ぎて計算できないとしても、カオスが複雑な世界を計算してくれるかもしれないそうです。
量子コンピュータではなく、カオスコンピュータができると言うことでしょうか(冗談です)。
また、カオスには、時間の前後関係がないそうです。
そのため、カオスでは、原因と結果という考え方そのものが意味を失ってしまうそうです。
しかし、カオスがネットワークを作ると、因果関係が復活するそうです。
そして、カオスが作るネットワークでは、外部情報を動的に保持し続けることが可能になるそうです。
カオスがあることで、カオスの間を情報が遷移して行き、脳には情報が保たれているそうです。
つまり、次から次へと異なるカオスに情報が移って行く仕組みがあれば、カオスのネットワークは外部情報を動的に蓄えることが可能になるそうです。
なかなかイメージできない話ですが、カオスを上述の「急流」それも循環している様な「急流」、情報を上述の「木の葉」と考えれば、少しイメージできるのかもしれません。
量子力学とカオス
量子力学では、原子の中の電子の動きは記述できず、原子の中で電子が存在するであろう位置が確率によって記述(表現)されます。
なぜ確率で表現されるのでしょうか。
電子の動きがとても複雑なので、古典力学が大前提とする滑(なめ)らかな運動では記述ができないためではないかと考えることができます。
つまり、原子中の電子の動きはカオスなのかもしれません。
カオスなので、なかなか人間にはその動きが認識できない、つまりは解析学的にはその動きを記述できないのかもしれません。
そのため、確率という数学が量子力学では使われているのかもしれません。
ただ、確率過程論を使うと、原子の中の電子の動きが記述できるようです。(ただ1電子系のみで多電子系は今のところ記述できないようです。)
すると、カオス(現象)も確率過程論で(近似的に)記述できるのでしょうか。
また、電子の動きがカオスだと仮定すると、つまり、電子が上述の「木の葉」だとすると、上述の「急流」に対応するものは何でしょうか。
ある説によると、「急流」=真空と言うことになります。
そして、実は真空というのは、何もない空間を表すものではなく、「仮想的な光子」が生成と消滅を繰り返している場であるそうです。
つまり、そのような場(=「急流」)によって、電子は常に揉(も)みくちゃにされているので、結果としてカオスと呼ばれるような複雑な動きを電子はしていると考えることができます。
なお、カオスというのは、人間の科学的な認識の限界付近に存在するものであると思われます。
ゆえに、カオスに関して今後も科学的な研究が進むのか、それとも認識の限界なのでそれ以上は科学的な研究が進まないものなのか、気になるところです。
因果関係が成り立たない複雑なものに、人類(科学)はどのように対応するのでしょうか。
確率論を使うのでしょうか。
なお、「決定論的な力学」と「確率論」が二項対立の関係になっているようです。
この関係は「必然の科学」と「偶然の科学」とも言い換えられるようです。
脳について
カオスと脳
その本によると、脳にはカオスが存在し、機能的な役割を果たしている可能性があるそうです。
脳は要素には還元できず、脳の要素である神経細胞の働きをいくら調べてみても、心がなぜ生まれるのかは明らかにならないそうです。
つまりは、脳の解明が進みにくいのは、実験や検証が難しいということもあると思いますが、人間の認識(数学)が上手く追跡することのできないカオス現象が関係しているからではないかとも考えられます。
脳の研究は、複雑系の科学という分野でも行われているそうです。
複雑系の科学では、因果関係がはっきりしない、何が原因で何が結果なのかが良く分からないものを取り扱っているとも言えるそうです(つまりは要素還元主義的な方法が使えない分野です)。
その本によると、脳において、情報(電気信号)の動きがカオス状態から、徐々に形作られて行く過程で、脳は知能を発達させて行くと考えられるそうです。
実際に、ロボット研究者達は、ロボットが身体を動かすことで、外界に働きかけながら、情報を獲得する過程を重視しているそうです。
脳においても外界に関連付けることが、本質的である可能性があるそうです。
外の環境に関係付けることで、脳という環境も変わって行くそうです。
ちなみに、今の環境に適応し過ぎてしまうと、次に変化した環境に適応できなくなってしまうそうです。
適度に適応するが、完全に適応し過ぎてはダメで、随時変化できる柔軟性を持っていなければならないそうです。
そして、脳とカオスを結び付ける1つのカギになると考えれるのが、次のことです:
脳は、要素(部品)が相互作用してシステム(全体)ができるのではなく、システムが働く(組織化する)ことで要素(部品や機能)が生まれて来るシステムである。
つまりは、脳にはカオスを生み出すことができる場(=「急流」)がまず大前提として存在すると言うことでしょうか。
その様な場に、知覚などからの情報(=電気信号=「木の葉」)が入って来ると、その情報の動きはカオスと呼ばれる動きになることがあると言うことなのかもしれません。
そして、そのカオス的な振る舞いをする可能性がある情報は、脳のある部分(海馬)に集まり、特殊な状態を作り出すようです。
その特殊な状態とは、フラクタル的に、無限に同じ構造が入れ子状に続いている状態であるそうです。
これが、カオスの超越的な性質を生み出す源になっているそうです。
そして、この超越的な性質のために、無限個の時間の情報を有界な空間の情報に変換できるそうです。
つまり、その変換によって、エピソード記憶が可能になることが説明できるそうです。
エピソード記憶とは、時間や場所や感情を伴った出来事に関する記憶であるそうです。
なお、上述の無限を有限にする変換は、数学のカントル集合を使うと説明できるようです。そして、カオスは必ずカントル集合を持っているそうです。
大まかな結論としましては、カオスは人の記憶に関わっていると言うことになります。
記憶以外にも、カオスは脳内で機能的な役割を果たしている可能性があるそうです。
脳の性質
その本によると、脳内での情報処理の仕組みは人類共通であるそうです。
しかし、神経系のネットワーク構造が人によって少しずつ異なっているために、情報処理の結果が人によって異なって来るそうです。
その結果、感覚は人によって異なり、異なる感じ方と言うものが生まれるそうです。
また、その本によると、知覚と言うのは、数十ミリ秒おきにコマ送りになっていて、それが脳の働きによって、スムーズに見えているだけだそうです。
つまりは、空間(世界)というものが離散的な(バラバラな)空間なのか、連続した空間なのかは、人間は厳密には把握できないと言うことだと思います。
日常生活では、空間が離散的か連続的かは問題にならないと思いますが、極微小の世界を扱う素粒子論では大事かもしれません。
また、個々の脳が、独立して先天的に個々の心(内界)を作り出すのではなく、他者による心(外界)が私の脳(や内界)を作るようです。
また、自己とは他者(外界)を表現(反映)したものだと考えられるそうです。
集合的な心(社会的な常識・振る舞い)をそれぞれの脳が「自分の心」(内界)として変換している(取り込んでいる)、そんな感じがするそうです。
また、脳は必ずしも外部刺激に直接反応するのではなく、外部刺激に対する動的な内部イメージを作っていて、いつその外部刺激が入って来ても、対応する内部イメージに素早く対応することで、外界への即時適応ができるようになっているそうです。
つまり、脳は、刺激―反応マシンではなく、外界に対する内部イメージを常に作っていて、外部からの入力を一つの刺激として、内部イメージを呼び出すことで、そこで編集された情報に基づいて、外界を解釈しようとするそうです。
脳というのは、現象的には周りの環境の持っている情報構造を取り込んで脳の中に再構築しているのだそうです。
また、自然や人間社会を含めた環境は、完全に予測可能でもないし、かと言って完全にランダムでもないそうです。
決定論的でもなく確率論的でもないそうです。必然でもなければ、偶然でもないそうです。
そうした必然と偶然が混在する複雑な環境(出来事)と向き合うために、脳は記憶という装置を持つようになった可能性があるそうです。
また、脳は、予め機能が決まった要素が相互作用しているのではなく、脳というシステムが身体および他者との相互作用やコミュニケーションによって機能するように構成要素が決まって行くようなシステムであるそうです。
確かに、人間社会においても、個人や組織(企業)の役割は、予め決まっている訳ではなく、社会全体が上手く回る(機能する)ような形で決まって行くような気もします。
なお、前頭葉は因果関係が好きなようで、因果関係を作りたがるそうです。
この前頭葉が作る因果関係によって記憶が定着するまでに記憶は書き換えられてしまうことがあるそうです。
おまけ:ABC予想とカオス
NHKスペシャル『数学者は宇宙をつなげるか? abc予想証明をめぐる数奇な物語』によれば、数学の難問に「ABC予想」と呼ばれる問題があり、その問題の証明には「同じものを違うものと見なす」というアイディアが使われているそうです。
なお、その証明は非常に独創的であるようで今のところ理解者がとても少ないようです。
数学は「異なるものを同じと見なす」というアイディアで発展して来たそうですが、その逆である「同じものを違うものと見なす」というアイディアは、多くの著名な数学者には受け入れがたい矛盾であるようです。
それでは、カオスには同じ物を異なる物にする力があるでしょうか。
同じ2つの「木の葉」を同時に同じ場所から「急流」に流したとしても、恐らくその2つは同じ動き方や同じ経路にはならないと思います。
カオス現象においては、ほんの少しの「ずれ」がどんどん拡大されて行って、将来の振る舞いが正確に予測できなくなるからです。
それでは、その「ずれ」を限りなく0に近付けても、カオス現象は現れるのでしょうか。
限りなく0に近づけた場合、恐らくは、限りなくカオス現象は現れなくなると思います(ただ、限りなく0に近づけても、多体相互作用が関連して来ると「ずれ」が新たに生じてカオス現象が生まれる可能性が再び出て来てしまうのかもしれませんが)。
つまり、無限の未来においては、カオス現象は現れるかもしれないが、有限の未来においてはカオス現象は現れないと言うことになると思います。
しなしながら、現実においては、全く同じと言うことはなかなか無いかもしれません。
ただ、ボース粒子(光子など)は、同じ量子状態に複数の粒子が存在できるので、全く同じと言うことが可能なのかもしれません。
しかし、2つの物が同じ物かどうかは別にして、2つの物が認識できた時点で、既にその2つは異なるのだと思います。
つまり、本当に同じ物ならば、同じかどうかを確認するという事自体が不可能なのだと思います。
同じかどうかを確認できる時点で、それはもはや異なるのだと思います。
つまり、人間の認識において、2つの物と認識された時点で、その2つは異なる物であると言うことになると思います。
逆に言えば、時間も位置も状態(動き)も形(大きさ)も全く同じ物は、人間には1つと認識されると言うことだと思います。
たとえ、頭の中だけで、全く同じ物が2つあると仮定したとしても、2つあると仮定している時点で、その2つは異なるのだと思います。
全く同じならば、2つと言うことはあり得ず、1つと認識されるべきなのだと思います。
それでは、カオスには、1つの物を2つの物と見なす力があるでしょうか。
1つの物を分裂されることはカオスにはできないと思うので、1つの物が持つ異なった側面(要素)を上手く引き出すしかないのかもしれません。
1つの物の中のプラスの面とマイナスの面を対立させ、あたかも2つの物があるように見せかける「場」(状況・条件・設定・階層・循環)を作り出せば良いのかもしれません。
この「場」は「カオスを生み出す場」であると言い換えることができると思います。
では逆に、2つの物を1つの物と見なすことは可能なのでしょうか。
つまり、「差がある2つ」を「差がない1つ」と見なすことは可能なのでしょうか。
やはり、これも、その2つが「差がない1つ」つまり「差がない物」となる状況(設定)を作り出すと言うことになるのかもしれません。
例えば、日本では太郎と花子は区別されますが、アメリカに行けば、日本人として「一括(ひとくく)り」に扱われる状況もあるかもしれません。
すると、やはり、「差がない1つ」を「差がある2つ」と見なす方が難しい気がします。
上手く状況(動き・流れ・相互作用・カオスを生む場)を設定できれば、可能なのかもしれません。
例えば、太郎には「表の顔」と「裏の顔」があり、表向きは真面目なサラリーマンとして振る舞いますが、裏では…みたいな感じでしょうか。
この「表の顔」と「裏の顔」を永遠に続けることができるのか、と言う問題になるのかもしれません。
すると、何となくですが、「差がない1つ」を「差がある2つ」と見なせる時というは、特別な条件やバランスがそろった場合に限られるような気もします。
ただ、「裏の顔」がバレて「表の顔」と統合しなくてはならない状況になったならば、再び新たな「表の顔」と「裏の顔」を作り出し、それに乗り換えれば良いのかもしれません。
話(論理)が飛躍しますが、「差がない1つ」を「差がある2つ」と見なせるかどうかは、あらゆる物に二項対立的なものを見出せるかと言う問題と関わるのかもしれません。
人間の思考は、二項対立的なものが好きなようなので、そこを足掛かりにすれば、「差がない1つ」を「差がある2つ」と見なせるのかもしれません。
一つの組織の中に、二つの派閥(流派)が生じることは、良くあることだと思われるので、「差がない1つ」を「差がある2つ」と見なすことは、比較的日常的なことなのかもしれません。
実際に、ABC予想の証明に関する論争においても、「その証明は完全に正しいと考える数学者」と「その証明には矛盾(問題)が含まれていると考える数学者」がいらっしゃるようです。
確かに、自分の心の中の葛藤・矛盾・対立をなかなか合一できない方の方が、むしろ多いのかもしれません。
従って、「同じものを違うものと見なす」というアイディアは、大まかには、カオスを生み出す状況を上手く作り出せれるならば、妥当であるのかもしれません。
ちなみに、一卵性双生児の方々の人生や性格が異なるのは、カオスのためでしょうか。
注)すみません。ABC予想の証明に関する論争についてネットで調べてみましたら、ABC予想の証明には「同じものを違うものと見なす」かのようなアイディアも使われているのかもしれませんが、それが本質的な箇所ではないようです。つまり、論争となっている個所やその証明の本質的アイディアは、別の部分にあるようです。