今回は、哲学と科学の共通点と相違点について調べたり考えてみました。
哲学とは
ある記事によると、哲学とは、様々な物事の「本質」を捉(とら)える営みであるそうです。
さらに、その記事によると、哲学は、「問い」に対して、できるだけ誰もが納得できるような「共通了解」を見出そうと探究を続けて来たそうです。
ここで、「問い」とは、絶対の正解のない問題のことで、例えば、「良い教育とは何か」や「美とは何か」と言った問いです。
また、哲学では、「この世に絶対に正しいこと(絶対の真理)なんてない」と言うことを大前提としているようですが、この大前提の下では、全ての「問い」が相対化してしまう、つまり「共通了解」に辿り着けなくなる恐れがあるようです。
そこで、哲学では、個人がもつ「確信」や「信憑(しんぴょう)」をどれだけ疑っても疑えないものとして認識し、思考や議論の基礎・土台・始発点にしているそうです。
さらに、実は、この「確信」や「信憑」は、個人の「欲望」や「関心」に応じて生み出されるものであり、この個人の「欲望・関心」が世界に「意味」を与えるようです。
例えば、「生きる意味とは何か」という問いには、結局のところ、個人の「欲望」や「関心」が関係して来るということなのだと思います。
つまり、哲学は、「意味の世界」つまり「人間の認識の世界」において、物事の「本質」を明らかにすることで、「問い」に対する「共通了解」を得ようとしているようです。
(「意味の世界」につきましては、後ほど詳細にご説明します。)
なお、哲学では、「問い」に対して「共通了解」として得た「答え」は、絶対的なものではなく、検証可能なもの(常に否定される可能性を秘めたもの)であるようです。
余談:哲学史
学問として哲学をする場合は、哲学史、つまり「どのような問いに対して、哲学者たちがどのような答えを出して来たのか」や「哲学者たちがどのように思考法や認識法を進化させて来たのか」を知っている必要があるようです。
つまり、哲学史を学んでいない人が、ある問いに対して、本質的な答えを見出していたとしても、学術的には、恐らく何の評価もされないようです。
ただ、そもそも、哲学史を学んでいない人は、学術的に価値のある本質的な答えを見出すことができないのかもしれません。プロとアマチュアの差でしょうか。
科学とは
科学とは、自然界や経済など外界における「謎」や「仕組み」を客観的・論理的・体系的に解明する営みであるかもしれません。
ここで、「謎」とは、未だ明らかになっていない事柄や不思議のことです。
そして、科学には、外界(研究対象)に対して解明された「仕組み」や「結論」は、客観的に検証可能なものでなければならないという制限があります。
つまり、科学的な結論は、実験や観測によって繰り返し確認できる、つまり再現可能なものである必要があります。
また、科学では、「謎」を解明するための1つの方法として、伝統的に仮説検証法が使われています。
仮説検証法では、研究対象についての実験データからある仮説(又は理論)を導き出し、その仮説(又は理論)に基づいてある結論(又は予測)を導き出します。
そして、その結論が正しいかどうか実験で検証します。
- 実験で結論が正しいことが確認されれば、その仮説(又は理論)は正しい可能性が高いと判断されます。
- 実験で結論が不正なことが確認されれば、その仮説(又は理論)を修正し、再び結論を実験で検証します。
一方で、特に理論的な研究では、実験データからではなく、理論の全体的な整合性や統一性または対称性さらには直感や美学などからある仮説や方針を導き出します。
そして、その仮説や方針に基づき新理論を構築し、ある結論(又は予測)を導き出します。
その結論は、やはり実験や観測で検証されます。しかし、技術的な問題などのために直ぐに検証される訳ではなく、何年もかかって理論の正しさ(正しらしさ?)が実証されることもあります。
哲学と科学の共通点
哲学と科学の共通点は、研究対象の「本質」を捉えるところだと思います。
科学においては、「本質」という言葉の代わりに、原理や法則または仮説などの言葉が使われることがあります。
また、哲学的な結論と科学的な結論が、検証可能なもの(常に否定される可能性を秘めたもの)であるところも共通していると思います。
歴史的には、科学(物理学や生物学など)は哲学から枝分かれして行ったところがあるので、科学の根源的なところに哲学の考え方が流れているのは、当然なのかもしれません。
哲学と科学の相違点
哲学と科学の相違点は、ある記事によると、探求する対象だそうです。
つまり、その記事によると、
- 哲学が探究する対象は、真、善、美をはじめとする、人間的な「意味の世界」の本質
- 科学が探求する対象は、「事実の世界」のメカニズム(仕組み)
であるそうです。
ここで、「事実の世界」というのは、主観的な認識の世界(内界)ではなく、客観的に捉えた外の世界、つまり、人間が共通して認識できる外界のことだと思います。
例えば、幽霊や死後の世界は、人間が共通して認識できるモノではない(特定の人だけが認識できるモノ)ので、今のところ科学が探求する対象ではないことになります。
一方で、難解なのは「意味の世界」です。上述において既に出て来てしまいましたが、「意味の世界」とは何でしょうか。
「意味の世界」とは
例えば、ある人の行動を見て、「意味が分からない」と感じることがあると思います。
より具体的には、数学者(ゲーム好き)が、四六時中、机(モニター)に向かっているのを見て、「何が面白いのか、意味が分からない」と感じることがあるかもしれません。
つまり、意味が分からないモノに対して、人間は消極的な態度をとってしまうことが多いと思います。
さらに、意味や価値が分からないモノに対して、人間は正当に認識ができないこともあるようです。
例えば、お寿司の大トロは、昔は捨てられていた部分だったそうです。
逆に、ある物事の意味や価値が分かると、人間はそれを正当に認識し行動を起こすのだと思います。
例えば、勉強する意味が分かっている子供や大人は、自発的に勉強します。
まとめると、人間の認識(捉え方)や行動に強く作用するものが意味や価値で、そのような人間の行動原理になりうる意味や価値の本質を探求するのが哲学ということになるのだと思います。
ただ、意味や価値は、確かに人間の認識や行動に強い影響を与えると思いますが、全ての人間に等しく影響を与える訳ではないと思います。
つまり、意味や価値は、必ずしも客観的なもの(絶対的なもの)ではないと思います。
確かに、ある行為の意味が分かっても、面白さや興味を感じなければ、行動には繋(つな)がらないのが人間だと思います。
余談:さらなる疑問
ところで、「客観的でないもの」の本質とは、何なのでしょうか。
個人の「欲望」や「関心」に関係して来るものなのでしょうか。つまりは、哲学が思考や議論の基礎・土台・始発点にしているものなのでしょうか。
それでは、「客観的なもの」の本質とは、何なのでしょうか。
科学が探求しているものなのでしょうか。
ここで、「客観的なもの」とは、人間が共通して認識できるもののことです。
つまり、「客観的なもの」とは、複数人の人間がいないと認識が確定しないものとも言えるかもしれません。
ある世界に人間が一人しか居ない場合は、人間は「主観的なもの」と「客観的なもの」を区別することが難しいのかもしれません。
おまけ
共通了解とは
例えば、「剣道とは」という問いがあったとします。
この場合、哲学者はどのように答えを出すのでしょうか。
辞書的な視点や歴史的な視点で、答えを出すのは、比較的容易かもしれませんが、剣道の精神的な面に答えるにはどうするのでしょうか。
つまり、哲学者は自分が経験・体験していないことでも哲学できるのでしょうか。
ある程度は書籍や文献などで調べたり、経験者に直接インタビューすれば、剣道について理解が深まるのかもしれませんが、本当に「本質」を捉えることができるのでしょうか。
例えば、剣道の精神的な面に対する「考え」は、剣道を始めて間もない人達と全国大会でトップ10に入る人達では、かなり違うかもしれません。
誰もが納得できるような「共通了解」とは、どのレベルの人達に基準を合わせるのでしょうか。
それとも「本質」の探究にはレベルや基準は関係ないのでしょうか。
その研究は何の役に立つのですか
研究者は、「その研究は何の役に立つのですか」と尋ねられることも多いと思いますが、基礎科学系の研究では、確かに社会的なことに直接的に役に立つ訳ではないこともあります。
ゆえに、研究者は、その手の質問に窮(きゅう)してしまうこともあります。
しかし、「その研究は何の役に立つのですか」つまり「その研究をやる社会的な意味は何ですか」とは、「意味の世界」の問いであり、「事実の世界」のメカニズムを探究する科学者が答えるべき問いではないのかもしれません。
ゆえに、「その研究は何の役に立つのですか」と問われれば、科学者は「『意味の世界』の問いは哲学者に聞いて下さい」と答えても良いのかもしれません(すみません、冗談です。多くの科学者は科学的な意義・意味を理解して研究しています)。
物語(ストーリー)による意味付け
人間は、意味が与えられると(意味が分かると)、安心したり、納得したり、行動したりすることがあると思いますが、物語(ストーリーや歴史)もまた人間の行動原理に繋がるところがあるようです。
例えば、ビジネスの世界(CMの世界)で、物語を使って、人間の購買意欲を誘うのはそのためかもしれません。