今回は、小説におけるオリジナリティ(独創性)と理学系研究におけるオリジナリティを比較してみたいと思います。
小説におけるオリジナリティを紹介しつつ、理学系研究におけるオリジナリティを紹介できれば幸いです。
小説におけるオリジナリティ
まず、小説におけるオリジナリティについて調べてみました。
小説におけるオリジナリティとは何か
創作活動においてはオリジナリティを出すことが大切と言われていますが、そもそもオリジナリティとは何でしょうか。
村上春樹著『職業としての小説家』によると、オリジナリティとは「新鮮で、エネルギーに満ちて、そして間違いなくその人自身のものであること」だそうです。
なお、村上さんのその本にはオリジナルであるための3つの条件も書かれています。
また、ある記事によると、オリジナリティとは「新鮮さ」であり「他の作品ではあまり見られない特徴」だそうです。
また、ある記事によると、オリジナリティとは「こんなあたりまえの素材をこんな角度から見せてきたか」と感じさせる「意外性」だそうです。
また、ある記事によると、オリジナリティとは「ある一人の作家が、幾つもの作品の中で共通的に見せる、その作家ならではの「何か」」だそうです。
なお、オリジナリティの辞書的な意味は、ある辞書によると、「(考え方、行動の仕方などについて)世間なみでない独自の新しさ。また、独自の考え方や活動をしてゆく能力。独創性。」とのことです。
小説ではなぜオリジナリティが大切なのか
それでは、なぜオリジナリティが大切なのでしょうか。
ある記事によると、オリジナリティのない小説は「飽きられるのも早い」そうです。
さらに、その記事によると、オリジナリティのない小説は「その他大勢のなかに埋没して、頭を出せない」そうです。
つまり、オリジナリティがあることによって、読者を惹(ひ)き付けたり、他者の小説と自分の小説の間に「明確な違い」を出すことができるようになるようです。
言い換えれば、オリジナリティのない小説は、オリジナリティのある小説の模倣として読者に評価されてしまうと言うことなのでしょう。
確かに、既にある小説を模倣しただけの小説は、読者から飽きられ易いのかもしれません。
やはり、読者に「新鮮さ(又は新しさ)」や「意外性」を提示する必要がありそうです。
また、オリジナリティは小説の進歩や発展さらにはその進歩史や発展史に関わって来るもののようです。
小説のオリジナリティと小説の面白さ
創作活動においてオリジナリティが大切であることは分かって来ましたが、「作品のオリジナリティ」と「作品の面白さ」は別物のようです。
つまり、オリジナリティがあっても、作品として面白くなければ、読者から評価されないと言うことになります。
小説を面白くするには、まず「小説の基本」を学ぶ必要があるようです。
「小説の基本」とは、物語の「型」(起承転結など)だったり、物語の典型的なパターン(勧善懲悪など)だったり、文章を書く技術やテクニックだったり、これまでの小説の傾向や歴史だったりします。
「小説の基本」を押さえた上で、オリジナリティを出す必要があるようです。
つまり、「小説の基本」が出来ていないところに無理やりオリジナリティを出しても、読者からは評価されないようです。
確かに、基本を学んでいないと、自分ではそれがオリジナルだと思っていても、既に誰かがやっていてスタンダードなものになっていることもあるのかもしれません。
基本も大事だと思いますが、結局のところ、オリジナリティが作品の面白さに繋がるかどうかは、小説家としてのセンスや才能によるのかもしれません。
また、強いオリジナリティは読者の反感を買うこともあるようです。オリジナリティを理解してもらうためには、「読者目線の客観性を作家が持っていないといけない」と言うことのようです。
つまりは、読者に「共感や安心感を与える部分」と「斬新さや意外性を与える部分」がうまく調和していなければならないと言うことになるようです。
小説におけるオリジナリティの生み出し方
それでは、オリジナリティとはどのように生み出されるものなのでしょうか。
オリジナリティを生み出すためには、他とは違った視点や着想をもつ必要があるようです。
そのような視点や着想を得るには、どうすれば良いでしょうか。
ある記事によると、一つの面白い方法は、変わった部分がある人の思考や感覚、行動原理、生き方を研究することだそうです。
なお、その記事には、「変人に共感する人・憧れる人が作家としての適性を具えた人といえます」とあります。
さらに、その記事で紹介されていた事によると、日本人は「真のオリジナリティが奇人・変人や反逆者たちによって生み出されたものである」という事実を理解する必要があるそうです。
確かに、アメリカの大企業では、芸術家のような普通の人とは違う思考をできる人を積極的に雇用する場合もあるようです。
理学系研究におけるオリジナリティ
次に、上記の話と比較や対比する形で、理学系研究におけるオリジナリティを紹介してみたいと思います。
ただ、私の研究分野(計算物質科学系)の話に限定されることになってしまうかもしれませんので、ご了承頂ければ幸いです。
研究におけるオリジナリティとは何か
理学系研究におけるオリジナリティも、上述の小説におけるオリジナリティとイメージ的には一緒だと思います。
ただ、私の分野の場合は、これまでとは異なる独自の方向性や独自のアプローチにオリジナリティを感じることが多いと思います。
研究の場合は、研究が成功して(又はある程度成果が出て)初めてオリジナリティが認められる感じで、研究が成功しなければオリジナリティと言う言葉は使わない気がします。
例えば、研究費を申請する書類には、自分の研究のオリジナリティをアピールする欄がありますが、その研究が成功しなければどうでもいい話になってしまうこともあると思います。
ただ、もちろん、その失敗を足掛かりに次の研究に進んで行くこともあります。
つまり、研究におけるオリジナリティは、小説におけるオリジナリティとは異なり、自分でコントロールすることが困難なことが多いと思います。
研究ではなぜオリジナリティが大切なのか
研究分野にもよると思いますが、私の分野では、あまりオリジナリティの重要性が語られることはないかもしれません。
生物系や化学系の研究では、オリジナリティが重要なのかもしれません。実際に、ノーベル賞受賞者の方がそのように主張されている記事を読んだことがあります。
私の分野では、研究課題を解決するアイディアや発想が最も重要なので、オリジナリティと言う言葉はあまり使われないのかもしれません。
恐らく、数学系の研究でも、「オリジナリティが重要である」という言い方はあまりしないような気がします。
しかしながら、私の分野でも、新たな視点から新たな基礎理論を構築する研究には強いオリジナリティを感じます。
また、これまで誰もやっていなかったにもかかわらず新たな価値を見出した研究にも、強いオリジナリティを感じます。
ただ、もちろん、誰もやっていない研究をやれば良いという訳ではないと思います。
誰もやっていない研究には、それなりの理由があったり、大きなリスクが伴うことがあります。
ゆえに、理論系の場合は、それなりにヒントや前提が出揃(でそろ)うまでは、難しい課題に取り組めないこともあります。
一方で、その分野の流行りや雰囲気または所属する研究室の方針に無意識の内に流されてしまい、自分でオリジナリティのある研究を考えようとしなくなることがあるので要注意だと思います。
自分が本当にやりたい研究は何かをハッキリさせることが、研究におけるオリジナリティの第一歩かもしれません。
研究のオリジナリティと研究の成功
研究の場合も、小説の場合と同様に、オリジナリティ(新規性)があるからと言って、必ずしもその研究が成功する(つまり、その分野の進歩に大きく貢献する)訳ではないです。
(ただ、上述のように、研究の場合は、ある程度成果を出さなと、そもそもオリジナリティという言葉を使わないかもしれませんが。)
また、小説の場合と同様に、研究でも、まずは「その分野の基礎」を押さえることが大切になります。
また、小説の場合と同様に、研究でも、強いオリジナリティは他の研究者の反感を買うことがあります。
例えば、超弦理論の研究は最初なかなか他の研究者に受け入れられなかったようです。
つまり、4次元の時空間に慣れ親しんで来た物理学者には、世界が10次元や11次元の時空間であることを主張する超弦理論を受け入れることは容易ではなかったようです。
逆に、確かに、成功した研究(優れた研究)には、必ずオリジナリティがあるのかもしれません。
オリジナリティと言う言葉を使うかどうかは別にして、やはり何らかの独自のアイディアや工夫がなければ、困難な課題を解決することはできないのだと思います。
研究におけるオリジナリティの生み出し方
研究においては、オリジナリティは意図的に生み出すものではないような気がします。
粘り強く研究を続けるにつれて、自然と(又は必然的に)浮かび上がって来たアイディアや閃(ひらめ)きが、オリジナリティに対応するものになるような気がします。
研究においては、意図的に「成功に至るオリジナリティ」を生み出せるならば、ほぼその課題は解決したと言って良いと思います。
組み合わせると言う発想
しかしながら、研究においても、オリジナリティの生み出し方はあります。それは、小説におけるオリジナリティの生み出し方と非常に似ています。
ある記事によると、小説においては、既存のアイディア同士を組み合わせて、新しいアイディアを生み出すことがあるそうです。
つまり、その新たに組み合わせられたアイディアがオリジナリティになるという訳です。
研究においても、全く同様に、既存の計算法同士を組み合わせて、より汎用性の高い新たな計算法を開発することがあります(私の分野では)。
研究では、組み合わせること自体が難しい場合もありますが、つまり、かなりの工夫が必要な場合もありますが、既存の物を組み合わせるという発想は、小説の場合と同じです。
さらに、小説では他ジャンルのアイディアを組み合わせることもあるそうですが、研究でも他分野の理論を自分の分野の理論と組み合わせることがあります。
私の分野では、既存の計算法を組み合わせるという発想は、論理的に考えれば誰でもできることなので、このような研究には、強いオリジナリティを感じないことが多いです。
特に、私の分野では、組み合わせの数がある程度限られているため、そのように感じ易いののだと思います。小説の場合は、無数の組み合わせがあるのだと思います。
ただ、強いオリジナリティは感じませんが、このような研究でも高く評価されることはあります。
つまり、このような開発では、「その新たな計算法の強い有用性や応用力」または「その新たな計算法でしかできない意外な発見や結果」が示せれば高く評価されるのだと思います。
強くこだわる
小説では、ある事に「強いこだわり」を持つことによって、オリジナリティが生み出されることもあるようです。
確かに、研究でもそうかもしれません。
例えば、私の分野では、高度な数学にこだわった方が、世界トップレベルの計算法を開発されました。
確かに、私の分野では、もっと数学にこだわった方が良いような気がします。
なぜなら、大学1・2年生レベルの線形代数と微分積分だけで物質の世界を十分に記述できるはずがないと思うからです。
変わった部分がある研究者の方が有利か
小説のパートの方で少し触れましたが、「真のオリジナリティは奇人・変人や反逆者たちによって生み出されたものである」と言うのは、本当でしょうか。
判断が難しいところですが、私は本当だと思います。
普段から人と同じ様なことをしている研究者が、突然、研究では人と違った考え方ができるとは考えにくいです。
ただ、もちろん、変わった部分を全面的に出している大学教員というのは、かなり少ないと思います。
何かの時に変わった部分がふと出てしまう感じだと思います。
私の分野でも、少し前までは、少し変わった部分がある大学教員の方がいらっしゃったのですが、最近は、そのような方はほぼいなくなってしまった感じがします。
よく言われているように、大学に「変わった部分がある教員」を受け入れるだけの余裕や活気がなくなったと言うことなのでしょうか。
何はともあれ、やはり、少し変わった部分がある研究者の方が、真に優れた成果を残しているような気がします。
ゆえに、そのような方の思考法や発想法を学ぶことは、小説だけでなく研究でも大切だと私は思います。
しかしながら、変わった部分と言っても、巨額な研究費を取って来ることがアイデンティティ・使命・存在価値で、肝心の研究が二の次になっている教員(研究者)はいかがなものかとも思います。
小説の登場人物としては面白いかもしれません。