ヨーク研究所
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科学

画家の方の頭の中

今回は、日本を代表する画家の方が語る記事を参考にして、画家の方の頭の中を覗(のぞ)いてみたいと思います。

私の仮説

これまで私は「芸術の本質」に関することを調べて来ました:記事1記事2記事3

そして、現在のところ、次の仮説に辿(たど)り着いています。

仮説その1:

芸術的な表現とは、自分と他者によって「形(かたち)にして欲しい」と無意識的に望まれていた物を美しき欲望と伴(とも)に形にすることではないか。

ただ、美しき欲望とは何かが問題になります。

美しき遺伝子コードの様なものなのでしょうか(?)。

また、音楽は確かに「形ないもの」とも言えるかもしれませんが、今のところ「形あるもの」に分類しておきます。

仮説その2:

芸術的な表現を可能にするには、「人間の認識の仕組み」(脳科学的なこと)を熟知していた方が有利なのではないか。

人間は、外界と身体の相互作用を通じて、形になっていない物(外的な情報)を取り込み、それら無形物が意識に昇ると、人間的な意味付け・価値付けが行われ、つまり過去の記憶との繋(つな)がり化・関連化・統合化が行われ、ぼんやりとした脳内イメージができるようです。

そして、そのイメージを、言葉、論理、記号、数式、図、絵などの「型」によって、形にしようとするようです。

ただ、形にする際に、各人の興味・関心というフィルター(膜)を通すので、その形は時に極めて固有のもの(オリジナルなもの)になるようです。

以上が私の仮説になります。仮説ですので、この仮説は今後修正・改善されて行くと思います。

以下では、日本を代表する画家の方が語る記事(連載記事1連載記事2)を参考にして、画家の方の頭の中のことを私なりに紹介して行きます。

なお、上の仮説を立てるにあたっては、それらの記事も参考にしています。

なお、意外と、画家の方と研究者が頭の中でやっていることは似ているのかもしれないと思いました。

直感・閃(ひらめ)き

画家の方は、自分の直感や閃(ひらめ)きをとても大切にしているようです。

自分の直感や閃(ひらめ)きが全ての始まり(原動力)で、その直感や閃きで得た脳内イメージを絵にして行くようです。

ただ、興味深いことに、そのイメージを言葉や論理で把握してしまうと、イメージが痩せて、絵が一定の範囲に収束してしまうそうです。

頭の中のイメージは、強く形にしようとせずに、頭の中でふわふわさせておくのが、一番壊れないそうです。

それでは、画家にとって、全ての始まるとなる直感力や閃き力を身に付けるにはどうすれば良いのでしょうか。

直感力や閃き力を身に付けるには、まず自分の中に「基礎資料」が入っていないといけないそうです。

基礎資料」とは、絵に関する基礎だけでなく、様々な分野に渡るインプット(知識の吸収や体験)を指しているようです。

もしかすると、「基礎資料」には感受性、つまり、受け取る力のようなものも含まれているのかもしれません。

外界からの「刺激」や「きっかけ」を漏らさずキャッチする脳内ネットワークのようなものが「基礎資料」なのかもしれません。

ちなみに、数学者や理論物理学者の場合は、閃くまで一つの問題を長い期間考え続けることがあるようです。

形にするとは

その画家の方によると、頭の中のイメージを絵にしようとしても、なかなか思い通りには形(絵)にならないそうです。

自分が思い描(えが)いたイメージとは違うものが絵の中にどんどん現れて来るようです。

ゆえに、自分が描いている絵なのに、絵に知らないどこかへ連れていかれる感覚を抱くそうです。

さらに、絵を描いていく過程には、形が形を生んで行くような瞬間があるそうです。

そのためか、絵はどんどん当初のイメージを裏切って行くそうです。

一方で、絵の中に「表現したいもの」を上手く出せた時は、描いた自分でもはっきり説明できないものが絵になっているそうです。

さらに一方では、直感によって得たイメージを最後まで絵としてきちんと仕上げる作業は「つじつま合わせ」に過ぎないとも言えるそうです。

以上のことから、画家の方も研究者と同じように、試行錯誤していることが分かります。

研究者の場合、「イメージ」は「仮説」や「研究の指針」に相当するものになるのだと思います。

また、研究でも、論理が論理を生んで行くような瞬間があります。

論理が論理を生むとは、例えば、次のような感じです。

「XはAかBかのどちらかであったが、実験でAということが分かった。ならば、AならばC(A→C)という結果があるので、X=Cということも分かり、さらに、CならばD(C→D)ということが知られているので、X=Dということが最終的に分かる」という感じです。

また、研究でも、当初の予想に反して、意外な発見をすることがあります。

また、研究でも、直感によって問題解決への道筋を得たならば、後はひたすら論理的な「つじつま合わせ」になります(やや大雑把な表現になりますが)。

なお、その直感による道筋(方針)は、常に正解を導いてくれる訳ではなく、失敗することの方が多いです。このことも画家の方と似ていると思いました。さらに似ていることに、失敗していても何となくは形(論文)にはなります。でも失敗なのです。

画家の技術

画家にとっての技術とは、作り手の「意図するところ」へ見る人を「すうーっ」と直(じか)に導いてくれるものであるそうです。

絵では「意図していないところ」に、意図せず「引っかかり」や「違和感」を出してはいけないそうです。

逆に、「意図するところ」には、少し「引っかかり」や「違和感」を出した方が良いそうです。

「本当に表現したいこと」をキュッと見せるのが画家の技術であるそうです。

研究者も論文や学会発表などで、ついつい余計なことを加えてしまうのですが、はやりそれは美しくなく、話し(論理)の流れを乱すものに過ぎないと言うことだと思います。

意味の世界を壊す

画家の方は、対象を観察する際に、とても興味深い見方をしているようです。

つまり、対象から意味を外してしまうそうです。

「意味を外す」と言うのが、分かり難いと思いますので、説明して行きます。

通常、人間は対象を見る時、対象の意味も含めて認識しているようなのです。

つまり例えば、目の前の食卓にリンゴが置いてあるならば、食べ物という意味を含めて人間はリンゴを見てしまっています。

画家の方は、リンゴから「食べ物」という意味を外して、リンゴを観察するようです。

つまり、リンゴは食べ物ではなく、赤くて丸っぽい水気を含んだ物体として観察されるようです。

さらに興味深いことに、リンゴからリンゴという名前さえも外してしまうこともあるようです。

そうすると、リンゴは識別不可能なものになり、外界の連続性(全体性)の中に溶け込んでしまうそうです。

つまり、画家の方は、哲学で言うところの「世界分節」の逆をやっているようです。

「世界分節」とは、簡単にいうと、世界(外界)を「意味のまとまり」で区切ることです。

そして、そのような「世界分節」の逆をやると、全てが等価に、つまり世界が平坦になってい行くそうです。

逆に言えば、人間は外界の連続性(全体性)の中に「意味のまとまり」を設(もう)けることで(名前を与えることで)、平坦で平等な外界の中から対象を浮かび上がらせて識別しているようです。

画家の方にとっては、平坦になった方が絵にし易いこともあるのかもしれません。

絵は思いを伝える手段ではない

思いやメッセージのようなものが、絵の主眼ではないそうです。

巨匠と呼ばれる方の絵には、思いやメッセージのような邪気はなく、ただ「境地」だけがあるそうです。

「境地」と言うものの説明が難しいようですが、「境地」は「本来の自分というもの」と密接に関係しているそうです。

子供の絵は、自らの生理に忠実であるそうですが、巨匠の絵にもそのような感じがあるそうです。

研究者も「ノーベル賞を取りたい」や「教授になりたい」という邪気が先行してしまうと、上手くないのかもしれません。

ただ自らの生理に忠実に、つまり好奇心や探究心の赴(おもむ)くままに研究をされている方が優れた研究成果を残すのかもしれません。

おまけ:画家の身体と画家の無意識

その画家の方は、別の記事で、絵の中の線には、絵師の身体性あるいは精神性が転写されるとおっしゃっています。

何か奥深く興味深いご発言です。転写されるという表現もカッコイイです。DNAの転写を思い起こさせます。形が形を生み出し続ける宇宙の謎という感じでしょうか。

頭の中のイメージが上手く形(つまり絵)にならないのは、自身の身体や自身の無意識も関係しているのかもしれません。

無意識とは、外界と身体の相互作用そのもので、意識に昇っていない脳内の電気信号と言うこともできるかもしれません。ただ、この定義は、科学的には正しくないと思いますので、ご注意下さい。

そして、無意識の中にも上述の「本来の自分というもの」があるのかもしれません。

また、この無意識が、上述の「自分が描いている絵に知らないどこかへ連れていかれる感覚」を生み出しているのかもしれません。

脳科学によると、無意識は意識に先行するもので、無意識の方が意識よりも正解(客観的な事実)を知っていることもあるそうです。

つまりは、無意識の方が意識よりもずっと先に「本来の自分というもの」に気が付いているのかもしれません。

色々と述べて参(まい)りましたが、形にした物(絵)に「本来の自分というもの」が現れると言う考え方はとても面白いと思います。

普段から形にこだわると自分が表せるのかもしれません。