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科学

構造主義と自然科学

今回は、現代思想の「構造主義」という考え方から自然科学の難問を解くヒントを得られないかを考えてみます。

つまり、「構造主義」という思想から人間の認識や本質的な性(さが)に迫(せま)りたいと思います。

構造主義とは

「構造主義」の考え方は、内田樹著『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋,2002)に分かり易く書かれています。

この記事では、この本を参考にしています。

構造主義とは、人間の根本的なところにある本質的な機能・認識・性質・傾向を、明確に意識化しようとする学問分野と言えるかもしれません。

つまり、普段は無意識化されている人間の根本的な性(さが)・本性・正体・大前提を明確化・言語化しようとする学問分野と言えるのかもしれません。

なお、構造主義は、必ずしも哲学の分野の一部という訳ではなく、言語学、記号学、文化人類学、精神分析などの分野から提唱されました。1960年代に現れた「世界の新たな捉え方」です。

人間の基本構造

人間は基本的に「内界」と「外界」という二項対立的な構造を持っているようです。

「内界」と言うのは、自分自身、自分の内面、自分の心の中、自分の思考、自分の認識、自分の意識などのことです。

「外界」と言うのは、内界を取り囲む、自分以外の存在や環境のことです。

そして、内界というのは、実は「空っぽ」なのではないかということなのです。

確かに、内界には、生まれながらにして持っている「生物学的な本能」や「固有の心の気質」または「欲望や関心」などがあると思います。

しかしながら、生まれながらにして「言語」や「生きる意味」や「己(おのれ)の社会的な役割や使命」を知っている人間はいないと思います。

そして、人間は外界から色々なこと(言語や社会常識など)を吸収する内に、無意識の内に外界に(強く)依存した思考や身体になってしまうようです。

つまり、自分が何者であるかは、自分の内界を見ても分からず、外界(自然・社会・宇宙)の中の自分を見て判断するしかないと言うことになります。

つまり、「自分と比較できる対象」や「自分と差がある参照物」がないと、自分という者が何者であるか把握できないと言うことのようです。

そして、自分が何者であるかは、外界(社会)の中で、自分がどのように振る舞ったか、どのように行動したか、何を成したかで決まってしまうようです。

ただ存在しているだけでは、その存在が何であるかは決まらず、その存在が外界でどのように作用したか・どのように機能したかが問題になるようです。

例えば、人の性格は、社会の中で決まるようです。内界には性格の核となる気質があるだけで、その気質がどのような形で外界に現れ出るかで性格が決まるようです。

つまり、外界に現れ出たもので人間は他者から評価され、つまり、様々な絡(から)み合いを通じて、他者から意味や価値を受け取り、事後的に自分の本質を知ることになるようです。

ただ、そもそも「自分が何者であるか」という問い自体が、内界からの問いかけというよりも、外界からの問いかけであるように思えます。

確かに、動物は自分が何者であるかなどと考えることはないと思います。

存在しているだけでも、自分が充実していれば・自分が納得していれば、それで良いという考え方は現代思想(構造主義)では採用されていないようです。

言語と認識、そして表現

人間の頭の中で(認識の中で)、「形になっていない物」を「形にする」のが、言語であるようです。

例えば、人間によって名前が付けられた物事は、人間の認識においても明確に形になっているようです。

つまり、頭の中で「形になった物」は、その存在がしっかりと認識・記憶され(確定認識)、思考においてもその機能を果たす(意味を成す)ことができます。

逆に、言葉によって「形になっていない物」は、人間にはまだ上手く識別できていない状態のもの(不確定認識)で、通常、深い思考の材料や基盤にはならない(意味を成さない)ようです。

興味深いことに、人間は言葉にすることで、つまり、物事の関係性や連続性の中で注目すべき特徴・差異性質・機能に名前や定義を与えることで、「形になっていない物」を明確に認識・記憶するようになるようです。

例えば、「心の中にのみ存在する思い」は、「形になっていない物」の典型で自分でも完全にはそれを把握できていないようです。

「思い」を言葉によって形にすることで、自分が本当はどのような思いや感情をもっていたのかが明確になるようです。

確かに、自分の「思い」を実際に紙などに書き出して、きちんと心を整理するというのは、よく聞く手法です。

また、勉強法でも、自分が学習したことを誰かに説明することで、自己の理解を整理する・定着させる手法があります。

つまり、人間には表現してみて初めて自分が何を考えていたのかが、鮮明になると言うことがあるようです。

逆に言えば、人間は、必ずしも、自分の中で完全に「形になっている物」を表現している訳ではないようです。

ゆえに、小説などの(芸術)作品で、作者の意図を考えることは必ずしも必要ではないそうです。

つまり、作者自身も表現してみて、初めて「自分が言いたかったこと・表現したかったこと」が何であったかを知ることがあるようです。事後的です。

ちなみに、仕事でも趣味でも、取り敢えずやってみて、何かに気付いて、修正や改善を繰り返しながら進んで行くのが基本姿勢になるようです。初めから最善の方法を知っていることはないようです。

話を元に戻しますと、作品の価値は、その作品が鑑賞者といかに相互作用し(絡み合い)、鑑賞者に「価値」や「意味」を与えるかで決まるようです。作者の意図はあまり関係ないようです。

作者が無意識の内に洩(も)らしてしまった本音や本質に鑑賞者は魅了されることもあるようです。

作品では「意図された表現」よりも自然に「作者から洩れてしまった固有の表現」の方が面白いのかもしれません。

存続するシステムの本質

『寝ながら学べる構造主義』によると、人間が形作り存続させている社会システム(社会制度や親族制度)には、次の特徴があるそうです。

  1. 絶えず「変化」や「交換」または「循環」を必要とする.
  2. システムができた理由や起源を追究できないこともあり、取り敢えずは従うしかない.

人間が作ったシステムでさえ、その起源を辿(たど)ることができないことがあるので、自然が作ったシステムである生命のその起源が解明されていないのも何となくは納得できます。

システムを形作る原因となった根は、遠い過去に消えてしまったと考えるそうです。

確かに「一回しか起きないことの重なり」は人間には感知・認知され難いのかもしれません。

また、どんなにそれが現実のものであろうとも、確かな証拠が残らないものは、人間には認知され難いのかもしれません。

そして、自然が作ったシステムでも、人間が作ったシステムでも、循環(サイクル)という基礎構造を取ることにより、システムを存続させているようです。

ただ、システム(社会)には、同じことを繰り返すシステム(社会)もあるようですが、循環しながらも少しずつ前進・進化して行くシステム(社会)もあるようです。これらのシステム(社会)には、優劣はないそうです。「存続だけが価値をもつ」と言うことなのかもしれません。

確かに、生物にも、何億年も進化しない種もいれば、比較的短期間の内に大きな進化を遂げている種もいます。

また、この循環構造は、「give and take」(贈ることによって受け取る)を原則として成り立っているそうです。

ただ、ここでの「give and take」は、必ずしも贈った相手から何かが戻って来るということを意味している訳ではないようです。どちらかと言うと、回りまわって、最終的に何かが自分のところに戻って来るという意味のようです。

「give and take」(贈与と返礼)の原則は、親族制度、経済・商売、日常的な人間関係など様々な場面で見出されるようです。受け取り過ぎるとバランスが崩れ、遅かれ早かれ存続できなくなるようです。

なお、構造主義で見出された「存続するシステム」の本質は、前回の「陰陽五行」思想での五行のサイクルに繋(つな)がるところがあるような気がします。

つまり、上述の特徴1が「陰陽五行」の相生関係に対応し、特徴2は「陰陽五行」の相剋関係にやや無理やり対応付けられなくもないような気がします。

いずれにしても、構造主義と陰陽五行説は相性が良いと思います。

話を元に戻しますと、確かに、物理学でも、物理法則の存在そのものは疑わないことが多いです。なぜ、そのような物理法則が宇宙に存在するのかを問うても、なかなかその答えには辿り着かないと思います。既に存在するシステム(物理法則)には、従う・受け入れるしかないのかもしれません。

個を存続するためには、理屈はよく分からなくても、従わなければならないことがあるようです。

従わないならば、個の存続はないということになるのだと思います。

個を存続させるものが「存続するシステム」であるとも考えられます。

つまり、「存続するシステム」と「個」は一蓮托生(いちれんたくしょう)ということかもしれません。

その二つは陰と陽の関係で、完全に切り離すことも完全に融合することもできないのかもしれません。

なお、「存続するシステム」と「存続するシステム」の起源は、切り離すことができ、ひとたびシステムが形成されると、システムがそれを作ったはずの「個」をほぼ無意識の内に規定・束縛・管理・制限・支配するようになるようです。

つまり、システムが「個」を作り出すようになるそうです。

「形になっていない物」を「形になった物」にするとは、全てこのような事なのかもしれません。事後的であり、「形になった物」が自分(自分の一部)なのかもしれません。

確かに、「言霊」(ことだま)という言葉もあります。「言霊」は、その言葉がその現実を作り出すようになると言うような意味です。

おまけ:生命の起源??(トンデモ理論)

生命は極めて高度なシステムであると考えられています。

上述の「存続するシステム」の本質にある通り、生命の基本構造は循環であり、生命を構成する原子や分子はなぜか生命システムに従っています。

原子や分子の集団は、通常ならば無秩序な状態に向かうはずですが、生命では、なぜかその逆である秩序立った状態に向かい、生命システムを存続させています。

『寝ながら学べる構造主義』によると、システム形成の本質は、構成要素の存続です。

それでは、なぜ、原子や分子は、集まり、自己組織化し、システムを作ってまで、存続したかったのでしょうか。

そのようなシステムを形成しなくても、原子や分子は存続できるはずですが。

原子や分子も、ある特殊な「形」、つまりは、無機物にはない有機物特有の分子の形を存続したかったのかもしれません。

特有の「形」を存続させようとしている内に、何らかの外的要因によって、集まるようになり、集まった物がさらなる特別な「形」(らせん構造)を表現すべく、自己組織化し、「give and take」の原則に従って循環するシステムを少しずつ作って行ったのかもしれません。

「形になっていなかった原子分子」が「形になった物」が生命というシステムで、宇宙の中で何らかの特別な「形」を表現かつ存続させたいのかもしれません。

原子や分子には、「意志」や「思い」がないと考えられていますが、それは外界において表現されていないだけで、原子や分子の内界(異次元)には本当は「意志」や「思い」の様なものがあり、それが表現された物、つまり、形になった物の1つが生命なのかもしれません。

ひとたび生命というシステムが形成されてしまえば、原子や分子が「意志」や「思い」を持っていようがいまいが、原子や分子はそのシステムに従う他ないと言うことになります。

しかしながら、それでは、なぜ、いま現在、「形になっていなかった原子分子」が、形になろうとしている「途中段階の物」が発見されないのでしょうか。

つまり、極めて初期の原始生命体に成りかけている中間物が発見されないのはなぜでしょうか。

不安定な中間物として「形」になるよりも、地球上に溢(あふ)れている生命システムに取り込まれて「形」になった方が楽だからでしょうか。

これは、人間も原子・分子も同じ構造なのかもしれません。