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なぜ研究するのか?【理学系】

誰もいない海

今回は、理学系の視点から「なぜ研究するのか」を私なりに考えてみたいと思います。

「なぜ研究するのか」に対する様々な答え

個人の立場や状況などにより「研究する理由」というのは、様々だと思います。そもそも「研究とは何か」を明確にする必要があるかもしれませんが、ここでは曖昧なまま「研究」という言葉を使うことにします。例えば、以下のような理由があると思います。

  • 大学・大学院を卒業・修了するため/学位を取るため
  • 教授や上司から褒められたいから
  • 研究者や大学教授になるため
  • 給料をもらうため/仕事だから
  • 研究費を獲得するため
  • 学会に参加するため/論文を出すため
  • 名誉、地位、権力を得るため
  • ノーベル賞を受賞したいから
  • 自分の研究成果を後の世に残したいから/教科書に名を残したいから
  • 頭が良いから/自分の頭の良さをアピールするため
  • 頭を使う仕事が好きだから
  • 何となく成り行きで/特別な理由なし
  • 不可能なことを可能にするため/誰にもできないことをするため
  • 新しいものや美しいものを創り出すため
  • 世界を変えるため/世界観を変えるため
  • 人類の進歩や幸福に貢献するため
  • 社会に役立つことをしたいから(社会貢献)
  • 日本の科学技術を支えるため/世界の科学技術競争に負けないため
  • 研究が好きだから/研究が面白いから
  • 分かっていないことを解明したいから(知的好奇心/真理の追究)
  • 親や親戚が研究者で研究しているから
  • 人生を知るため
  • 自己を成長させるため

「研究する理由」の分類

上記の「研究する理由」は、内的要因と外的要因に分類できそうです。内的要因に分類されるものは以下のようになると思います。

  • 不可能なことを可能にするため/誰にもできないことをするため
  • 新しいものや美しいものを創り出すため
  • 頭を使う仕事が好きだから
  • 研究が好きだから/研究が面白いから
  • 分かっていないことを解明したいから(知的好奇心/真理の追究)
  • 人生を知るため
  • 自己を成長させるため

ここで、内的要因というのは、究極的には「自分以外の人間が一人もいなくなったとしても研究するのか」と言う問いに対する答えを与えてくれるものかもしれません。

この問いの極論的仮定「自分以外の人間が一人もいなくなったとしても」は「研究する理由」の本質を探る上で面白い仮定だと思いますので、この仮定の下でもう少し話を進めてみましょう。

極論的仮定の下に

「自分以外の人間が一人もいなくなった」としたら、つまり「朝目覚めると、自分以外の人間が一人もいなくなっていた」と仮定します。その他のことはそのままです。

「自分以外の人間が一人もいなくなった」としたら、そもそも「生きて行く」だけで大変でとても研究なんてしている余裕はないでしょう。

まず、食料を長期的に確保するのが大変です。さらに、工場から有毒ガスが漏れてきたり、核施設から放射性物質が漏れてくるかもしれません。また、家のペット、動物園、水族館、植物園などの生き物の世話をする人もいません。

そこで、意思疎通はできないAIロボットが突然現れ、危険物、核施設、動物園などのあらゆる管理を最低限してくれると仮定します。ゆえに、電気、水道、ガス、ネットは使えます。さらに、AIロボットが食料は供給してくれると仮定します。

ここまで追加の仮定をすると、一人でも生きて行けそうです。この状態で、人間は研究をするのでしょうか。ここまで来ると、直ぐに死亡する可能性は低くなり、逆に時間を持て余すようになるでしょう。

こうなると、研究を続ける研究者が出てくると私は思います。特に、数学者や理論物理学者はパソコン、計算機、ネットが使えるので研究し放題です。邪魔する者は誰もいません。

「研究者は研究するのか」の検討

「自分以外の人間が誰もいないのに、研究する馬鹿いるのか」と思う人もいると思います。

確かに、人間は弱いところがあるので娯楽や趣味に走ったり、最初の数カ月または数年は知的好奇心や習慣や意地で研究を続けたとしても、結局は一人であることに絶望し、研究を止める人も多いかもしれません。

すると、「知的好奇心」、「真理の追究」、「自己成長」を大義名分としていた研究者も実はどこかで他者との新たな知の共有を目論んでいたことになると思います。つまり、内的要因に分類されていた「研究する理由」は純粋に内的要因だけではないことになると思います。

逆に言えば、「完全に他者の役に立たない研究」というのは、よほど意識的に「役に立たない研究」をすると注意しない限りあり得ないのかもしれません。

また、このような状況下で何年かの間に自分の研究が完了し十分に納得できる成果を得たので、これ以上は研究せずに違うことをやり始める人もいるかもしれません。

一方、時間は大量にあるので、娯楽や趣味に飽きて、暇潰しに研究を続ける人もいると思います。

確かに、研究では色々と調べて勉強する内に、色々なことが分かって来るので、又は色々なことが繋がって行くので、調査や勉強自体が娯楽や趣味より刺激的で面白いこともあります。さらに、理論系の研究では理論体系のもつ芸術的美しさやエレガントさに魅了されることがあり、さらなる美しい理論、神秘性、普遍性、発見を求めて研究してしまうことはあると思います。

つまり、純粋に自分一人だけでも「あの不可解な点を何とかしたい」または「誰も解決できなかったあの難問に取り組んでみたい」と思う研究者はいると思います。ただ、このような思いや感情には知的好奇心とはまた違う挑戦的な要素が含まれている気がします。

ただ、それでも「自分一人では解決できない」と判断することになり諦めてしまう研究者もいるでしょうし、世界中で自分しかできないことをやっているという優越感や自負で研究を続ける研究者もいるでしょう。

ちなみに、このような状況下でアインシュタインは研究をしたでしょうか。

研究が暇潰しの境地に達すると、例えば

  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、小説家は小説を書くのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、米農家は米を作るのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、芸術家は創作するのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、漁師は危険を冒してまで漁に行くのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、作曲家は作曲するのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、八百屋は八百屋をやるのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、映画監督は映画を撮るのか」
  • 「自分以外の人間が誰もいないのに、人間は生きて行けるのか(寂しさ、恐怖、不安などで衰弱しないのか)」

という疑問も「自分以外の人間が誰もいないのに、研究者は研究するのか」という疑問と同様に興味深いものかもしれません。

「暇潰しに研究」の真意

では、なぜ暇を潰さないといけないのでしょうか。それは恐らく、暇ほど退屈なことはないからです。

人間が健全に生き続けるためには、刺激や変化、新しい発見、生き甲斐が必要であると考えられます。

つまり、研究には人間が健全に生き続ける上で必要な要素が含まれていることになると思います。ゆえに、自分以外の人間が誰もいなくても、研究を続ける人はいると思います。

実際に、研究が「生き甲斐」になっている研究者は一定数いらっしゃると思います。研究には確かに他者との競争という面もあるのですが、生き甲斐の境地に達している研究者は、自分との闘いの要素が強いような気がします。

極論的仮定からの推論まとめ

● 外的要因で研究している研究者は、自分以外の人間が誰もいなくなれば、研究しなくなるでしょう。

● 内的要因で研究している研究者は、自分以外の人間が誰もいなくなった時、研究しなくなる人もいれば、研究を続ける人もいるでしょう。

内的要因タイプで研究しなくなった人は、

  • 研究が一番やりたいことではなかったか、
  • 研究が自己満足に達したか、
  • 何らかの他者依存性があったことになると思います。

一方、内的要因タイプで研究を続けた人は、他者依存性がなく研究に生き甲斐を見出した人である可能性が高いと考えられます。

外因タイプ vs 内因タイプ

完全に外的要因だけで研究している研究者も、完全に内的要因だけで研究している研究者も実際には少ないと思います。実際には両者の中間ぐらいの研究者が多いと思います。

ただ、外的要因が強い研究者と内的要因が強い研究者は互いに理解し合わないことが多いのではないかと推測します。なお、以下では次の略語を使うことにします。

  • 外因タイプ=研究する理由が外的要因によるところが大きい研究者
  • 内因タイプ=研究する理由が内的要因によるところが大きい研究者

外因タイプから見ると、内因タイプの研究は「趣味的で役に立たない」と感じるかもしれません。

逆に、内因タイプから見ると、外因タイプの研究は「ありきたりでつまらない」と感じるかもしれません。

私の個人的印象で申し訳ないのですが、次のイメージがあります。

  • 外因タイプの研究者は、使命感が強く真面目で優秀な人が多い
  • 内因タイプの研究者は、常識に囚われずユニークで面白い人が多い

外因タイプと内因タイプが対等な立場であれば、それほど問題は起こらないのかもしれません。

しかし、例えば、外因タイプの教授と内因タイプの学生の間にはトラブルが起こるかもしれません。ちなみに、外因タイプの教授で尚且つ研究能力が低い場合は、教授が有能な学生やポスドクの足を引っ張ることがあるので要注意です。

さらに余談ですが、実は学生が考えている以上に「教授と学生の相性」というのは、アカデミックの世界で生き残るには重要です。なぜなら指導教員の推薦書や類似物が何かと必要になったりするからです。

なお、最初は外的要因で始めた学生や研究者が、研究する内に、内的要因で研究するようになることはあると思います。その逆もしかりです。