今回は、私なりの「理系大学生向け勉強法」に関するあれこれを書きたいと思います。
マスターするには時間がかかる
まず最初に理解したいのは、大学の理系科目(数学、物理学、化学、生物学)をマスターするには、どうしてもそれなりの時間がかかってしまうということです。
ゆえに、勉強以外のことに多くの時間を割いている理系大学生は、大学での理系科目を勉強しても中々身に付かないかもしれません。その原因は単純に勉強時間が不足していることも多いです。
特に、大学の数学や物理学は中途半端な勉強時間では身に付かないと思います。実際に、数学や物理学は「分かっている」か「分かっていない」かのどちらかと言うことが多いです。極端な言い方をすると、数学や物理学は、論理が「繋がっている」か「繋がっていない」かのどちらかしかない学問なのです。よって、初学者にはとっつきにくく、「繋がっている」状態になるまでに時間がかかると思います。
ただ、大学の勉強に「面白み」を感じている人で、勉強時間が短い人はいないと思います。
ゆえに、大学での勉強を楽しみたいと思う人は、まず長時間勉強できる環境を手に入れる必要があると思います。
しかしながら、最近ではアルバイトをせざるを得ない大学生の方も多いと思います。やはり、やる気のある学生には、大人がもっと支援の手を差し伸べるべきだと思います。ただ、その大人もお金に困っていたりしますが。
大学教育の基礎は哲学と論理学
大学で勉強する上で、最初に履修すべきではないかと私が考える科目が、哲学と論理学です。
哲学
哲学といっても、理系学生のための哲学なので、科学哲学と呼ばれるものに近くなります。
哲学の授業では、人類(哲学者)がどのような「問い」に遭遇し、どのような思考法や認識法で、それらに答えて来たのかを学ぶことができると思います。
例えば、そもそも「科学とは何か」,「客観的とはどういうことか」,「数学とは何か」と言ったいわゆる「哲学的問題」に哲学者たちがどのように答えて来たのかを学ぶことができると思います。
ただ、哲学で本当に学ばなければならないことは、物事の本質を捉(とら)える方法であるようです。
つまり、大学では、様々な課題や問題は提供されますが、問題の解答はもらえません。ヒントはもらえるかもしれません。ヒントをもらい後は自分で考えたり、仲間と議論したりして自分の解答を作ります。但(ただ)し、その解答には客観性や一般性または普遍性がなければいけません。つまり、その解答は誰にでも納得してもらえるようなものである必要があります。
ある哲学者の方々による対談記事が、哲学の面白さや哲学を学ぶ意義を上手く伝えていると思いましたので、リンクしました。
ちなみち、欧米では教育機関が与える最高位の学位(日本では博士号)のことをPh.D. (=Doctor of Philosophy)と言います。Ph.D.は直訳すると哲学博士ということですが、このPhilosophyは全学問の起源・根本という意味での「哲学」で、現在ではPh.D.は単に博士号と訳されるようです。
論理学
ビジネスの世界でも、論理的思考が重要であると言われていますが、そもそも「論理的」とはどういうことでしょうか。「論理的」を理解するには論理学を学ぶしかないと大学生の私は思いました。
しかしながら、私の経験では、論理学の本が論理的に分かり易く書かれていることはなかった気がします。何か論理の飛躍を感じ、なかなか納得できるスマートな論理学の本に出合う事ができないでいたのですが、最終的には、大学の講義で聴いた論理学が、基礎部分のみでしたがこそこそ納得できるものでした。
論理的思考力を鍛えるには、数値積分などの計算プログラムの作成が役立つかもしれません。正しい値が出力されるまでには、それなりの論理的思考が必要になると思います。ただ、ビジネスで使う「論理的思考」とは違うものなのかもしれません。
良書を見つけ出す
大学の理系の勉強を面白くするポイントは、やはり良い本(良書)を読むことだと思います。ここで、良い本とは論理的に納得しながら学べる本です。
ただ、良い本を見つけ出すのはとても大変です。ネットで紹介されている本には良い本が多いと思いますが、やはり個人差があるため、結局のところ最終的には自分で見つけ出すのが良いと思います。
私が好きなタイプの本は、論理の飛躍がない本です。例えば、砂川重信先生の【物理テキストシリーズ 4 電磁気学、岩波書店、1987年】は私には論理の飛躍がなく、独学するには最適な本だと思っています。
理系の本を読むときの裏技は、関連する本を複数読むことです。複数の著者がそれぞれの視点でその科目を説明してくれているので、複数の関連本を読むことで論理の飛躍や説明不足部分などが補完され、真の美しい体系(全体像)が見えてくることもあると思います。
なお、大学レベルの理工学書には、通読した方が良いものと、辞書的な感覚で読みたい箇所のみを読んだ方が良いものがあると思います。
写経ならぬ写文
理系の良書(特に数学書や物理学書)を読むときのコツは、本文をノートに書き写しながら読んで行くことです。そして、数式の証明や導出の部分では、きちんとその証明や導出が正しいか自分で実際に書いて確認します。この確認作業がやがて研究をする際に大きな力になると思います。
慣れてくれば、文章の部分は丸写しではなく、自分なりに短くしても良いと思います。数式や証明の部分は、納得できるまで何度も丸写しすると分かって来ることもあります。ただ、数式の証明や導出は、私は覚える必要はないと思います。証明や導出を論理的に納得する方が重要です。
さらに、本に書かれている学問の全体的なストリーの流れや理論体系を俯瞰的に把握しておくことも最終段階では重要です。
この「写文」の作業は、レポートや論文を書く際の文章力を身に付けるのにも役立つと思います。
ちなみに、私は写文ノートにA4サイズの大きいノートを使っています。小さいノートですと、数式や証明が細切れになり易く全体が見え難くなるからです。また、写文ノートはあくまで理工学書を理解するための道具なので必要以上にキレイに書く必要はないですし、自分の好きな記号に書き換えて数式を「写文」して行っても良いと思います。
学生実験のレポート
実験レポートを書く時こそ、多くの参考書を読むことが役立つことはありません。一冊の参考書で、実験レポートの考察部分を書くのに十分ということはなく、考察に役立つヒントや知識を得るには複数の参考書を読む必要があると思います。逆に言えば、複数の参考書のどこかには、考察部分を書くためのヒントや知識が書かれていることがほとんどです。
そもそも「実験レポートの考察部分には何を書くべきか」という疑問はありますが、その疑問に対する回答は参考書やネットに書いてあると思いますのでここでは触れないことにします。
それでは私が考察に何を書いていたかと言うと、その実験で疑問に思ったこと全てに対して、その科学的な理由・根拠・説明を書いていたと思います。
例えば、「なぜこの操作が必要だったのか」、「なぜ収率が悪かったのか」、「なぜ今回はこのような結果が得られたのか」などの素朴な疑問に1つ1つその理由と考えられることを、複数の参考書から得た知識を用いて、述べて行きました。
ゆえに、実験レポートを書くのにものすごく時間がかかりました(土曜と日曜の丸一日)。その甲斐あって、学生実験の成績は最良のものが付きました。
独学とYouTube
これまで私は本を読んで独学で数学や物理学を勉強して来たのですが、やはり本を読んだだけでは伝わり難いこともあることに最近気付かされています。
本ですと、どうしても単調になったり形式的になったりして、どこに力点があるのか初学者には分からないこともあると思います。
また、著者の真意と言いますか、「要するにこう言う事」と言いますか、つまり対面では伝わり易いことでも読み取れなかったり、著者の思考過程や理解度、スピード感といったものも読み取れなかったりします。
しかしながら、最近ではYouTubeで大学の講義などを視聴することができ、講師の思考過程や力点、理解度やスピード感などが伝わり、本だけでは読み取れない空気感的理解もあることに気付かされました。
特にプログラミングのような実技的な勉強では、YouTubeの動画による理解が効率的で早分かりには役立つと思っています。
研究は勉強の延長線上にある訳ではない
大学4年生の私は勉強の延長線上に研究があると思っていました。つまり、大学で習う物理学の勉強を完璧に仕上げておかないと研究は始められないと考えていました。逆に、完璧に仕上げておけば、自然と偉大な研究にたどり着くと思っていました。ところが、実際にはそんなことはありませんでした。
大学4年生で研究室に配属されると、まずは研究する分野の勉強をします。ただ、勉強ばかりしていると、教授に「そろそろ研究を始めてくれ」と言われます。私も最初は訳が分からず戸惑っていたのですが、勉強と研究は別物と考えて良いと思います。確かに研究にはある程度の知識が必要ですし、なかには基礎的知識を学ぶだけでも時間がかかることもあります。ただ、いくら知識を貯め込んでも研究は始まらないのです。
なぜなら、研究者にとって「勉強とは既存の知識の吸収であり、研究とは新しい知識の創造である」からです。
つまり、勉強と研究とでは作業のベクトルの方向が違います。新しい知識を生み出すには生み出すための作業があります。その作業が、実験や観測だったり、シミュレーションだったり、試行錯誤だったり、数式の導出だったり、プログラミングだったりします。
論文には新しく得られたこと(つまり新しい知識)を書きます。ただ、その新しい知識がのちに教科書に載るぐらい重要なものである必要はありません。つまり、科学的に得られた新事実が書かれた文章ならば、論文にすることは可能です。ゆえに、論文には「重要と考えられるもの」から「重要でもないと考えられるもの」まで様々なものがあります。