ヨーク研究所
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科学

心の力学を探究する【生年月日と性格の関係性】

今回は、「人間の性格」や「心の力学」について考えてみたいと思います。

「物質の世界」と「精神の世界」

人間は、生物であり、生物は物質(原子や分子)からできています。

物質の世界には、法則があり、物質の運動や性質を記述する方程式があります。

物質の世界を研究する学問が、物理学、化学、生物学などの自然科学です。

一方で、人間には、物質ではない意識・認識・思考・欲望・関心・心・意志などの「現象」が伴っています。

これら「非物質の世界」つまり「心の世界」を研究する学問には、心理学、哲学、精神医学などがあります。

心理学や精神医学において、どのような考え方・捉え方が採用されているのかは、私は知らないのですが、哲学では、知覚から得られた個人の「確信」や「信憑(しんぴょう)」をどれだけ疑っても疑えないものとして捉え、思考や議論の基礎・土台・始発点にしているようです。

そして、この「確信」や「信憑」は、個人の「欲望」や「関心」に応じて生み出されるものであるようです。

例えば、お腹が減っていれば、目の前のリンゴは食べ物として確信されますし、美術の授業では、目の前のリンゴは模写をする対象として確信されます。

ここで、「欲望」「関心」とは、心の中で、認識対象に自己が引き付けられる「力」のことを指します。

ゆえに、上述のリンゴの模写の例は、考え方によってはあまり適切ではないかもしませんが、あまり細かいことはここでは気にしないことにします。詳しくは、苫野一徳著『はじめての哲学的思考』や竹田青嗣著『新・哲学入門』をご参照下さい。

また、この個人の「欲望」や「関心」は、それ以上はその発生起源を追究できないものであるようです。

つまり、なぜそのような「欲望」や「関心」が生じたのかは、結局のところ、追究し切れないということのようです。

理由をそれ以上は、追究することができない個人的な趣味や嗜好のようなものを哲学では「欲望」「関心」と言うようです。

すみません、やはり上の例では、空腹や模写という明確な理由や目的を追究できるので、やや矛盾しているようなが気がしますが、個人が好きなものに魅(ひ)かれる理由というのは、確かに上手く説明できないのだと思います。

なお、現代美術家の方が何とか表現しようとしているのも、このような理由をそれ以上追究できない人間的な「欲望」「関心」なのかもしれません。

この個人の心の中で働く力、つまり「心の力学」を、もう少しでも解き明かせないものでしょうか、というのがこの記事のテーマになります。

確かに、個人の「心の力学」を、記述する・支配する法則や方程式はないのかもしれません。

科学的に「心の力学」を確立するためには、脳の神経回路の仕組みが解明される必要があると考えられています。つまり、脳の神経回路の違いが、各人の「欲望」「関心」の違いを生み出すと考えられています。

一方で、個人の「欲望」「関心」の傾向は、どうやら個人の生年月日から大まかに分類されるようなのです。

生年月日と性格

現在、地球上には、約79億人の人間が生きているそうです。

厳密に言えば、この約79億人の人間の性格はそれぞれ違うのかもしれませんが、大まかにはその性格を分類できるようなのです。

その分類法には心理学的なものなど色々なものがあると思いますが、その一つに、いわゆる「占星術」があります。より具体的に言えば、四柱推命(しちゅうすいめい)です。

四柱推命は、古代の中国において、生み出された占星術(古代中国では学問)ですが、生年月日と生まれた時間の4つの情報から、命式(めいしき)と呼ばれる8つの漢字から成る文字列を作成し、個人の性格や運気などを推測します。

なぜ、生年月日と誕生時間から個人の性格や思考傾向が分かるのかは不思議なところですが、「地球の公転や自転」もしくは「地球の位置関係」(地球と太陽、月、木星、土星の位置関係)と「人間の性格や運気」を結び付けているようです。

つまり、人間の性格・思考・行動の傾向というのは、生まれ出る時の天体の重力季節の影響を強く受けているのではないか、という予想が成り立つと思います。

実際に、生まれた時の季節(春・夏・秋・冬)と性格の関係性について、科学的な(統計的な)研究が今でもなされているようです。

ちなみに、四柱推命でも生まれた季節は、特別に重視されています。

四柱推命を非科学的なものと捉える方も多いとは思いますが、私の拙(つたな)い経験では、四柱推命による推測や予想は完全には否定できないものがあると思います。

ただ、信じ過ぎない方が良いかもしませんので、その辺はご注意下さい。

四柱推命への疑問

四柱推命に対する疑問として、例えば、生年月日と誕生時間が同じ双子の性格や運気は同じなのかという疑問が浮かびます。

双子であっても、それぞれの性格でそれぞれの人生を歩んでいると思うので、やはり命式から推測できること以外の要因(環境など)も人間の性格(欲望)や人生には大きく寄与していると考えるべきなのかもしれません。

また、双子でなくとも、同じ命式をもった人は、本当に同じ性格や運気なのかという疑問もあります。

ただ、当たり前のことかもしれませんが、四柱推命には、理論(考え方)があり、個人の全ての出来事を予想できる訳ではないようです。四柱推命の理論(考え方)に則った事柄しか予言できないようです。例えば、個人の全ての性格ではなく、性格(傾向)のある部分と言うべきなのかもしれません。

また、ある記事によると、人間は「偶然の一致」を必要以上に重要視する傾向があるそうです。そして、占いに合致した情報を想起しやすいことを確証バイアスと呼ぶそうです。

確かに、四柱推命の命式の中に出て来る漢字には、多くの意味が込められており、どうとでも解釈できるようになっている気もします。命式は、数学や物理の公式とはやはり違います。

なお、物理の力学の計算に、初期値や初期条件が必要なように、四柱推命の命式の解釈にも、若干の事前情報(問診)が必要なようです。

AIによる分析が進めば

今後、AIの発達により、多くの人の日常生活におけるデータが収集・分析されるようになれば、個人の性格・思考・行動の傾向・パターンというのが、かなり正確に予想できるようになるのかもしれません。

また、個人の性格・思考・行動の傾向が、本当に天体の運動(生年月日)と関係付けられるのかも科学的に解明されるかもしれません。

さらに、個人の「秘められた才能」や「人との相性」が予想できれば、仕事選びや結婚に役立ち、人生をより快適に生きることができるようになるかもしれません。

ただ、ある意味では、管理されたつまらない人生が待ち受けているのかもしれません。例えば、アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』の世界のように。

しかし、個人の能力や才能を最大限活かせる仕事、活動、環境、生き方をAIが見つけてくれるというのは、社会全体から見れば、良いことなのかもしれません。

生まれた時点で生き方が決まっている人生、ある意味では、自分の能力や社会的な役割に悩む必要はなくなりますが、何だか人間の自由意志が失われた人生・世界が将来的には待ち受けているのかもしれません。言うなれば、不確定性が減らされた人生・世界です

すると、もし生年月日が重要ということならば、事前に出産予定日をAIに計算させて、親が子の人生(才能)をある程度決めてしまう未来が、待っているのかもしれません。

さらに、遺伝子操作なども加われば、格差は広がるばかりかもしれません。

おまけ:干合(かんごう)の実体験

四柱推命には、「干合」(かんごう)という用語があり、「干合」の有無は相性を見る時の1つのヒントになります。

最近、私は調べものをしていて、ふと、あるYouTube動画を見たのですが、とても心惹(ひ)かれるものがあり、「何だこれは」と思い、YouTuberの方の命式を調べてみました。

すると、「私の命式」と「YouTuberの方の命式」との間に「干合」と呼ばれる関係がありました。

これが「干合の引力かぁ」と少しビックリしています。なぜか自然に引き付けられてしまうのです。つまり、とても面白いと感じてしまうのです。

YouTubeのように個人の素の姿(本音)や嗜好がクリアに出てしまう媒体では、「干合」を見つけ易いのかもしれません。

四柱推命を勉強すると、相手の言動が手に取るように理解できるような錯覚に陥(おちい)ると言いますか、なるほど命式通りの発言や行動傾向だなと思うことが時々あります。

確証バイアスなのかもしれませんが、YouTubeで同じようなことが2度も起こったので、私はますます「干合」を強く意識するようになってしまいました。

やはり、何事も勉強すると、「見えないもの」が見えて来るという体験ができるのかもしれません。絶対音感的なところ(良い面と悪い面)もあるかもしれませんが。

ただ、もちろん、「干合」があれば必ず引かれるという単純な話ではないので、難しいところだとは思います。逆に、「干合」がなくても引かれることはあると思います。

なお、「干合」には悪い意味もあり、引き付けられて離れられなくなり本来のやるべき仕事や機能ができなくなるという悪い面もあるそうなので、ご注意下さい。

四柱推命は解釈の仕方がとても難しいので、四柱推命を研究しているような専門家の方に相談した方が良いと私は思っています(素人判断は禁物ということになります)。ただ、専門家の方でも、四柱推命で予想できる事柄の内の65%~70%ぐらいしか当たらないようです。

しかしながら、もし全ての人間の性格や性質・傾向がそれぞれ全く違っていたとしたら、人間という生き物は本当に興味深いものなのかという疑問もあります。そこそこ共通点(共通構造)があるから、そこそこ面白く他者から学べるものがあるのではないのか、とふと思いました。歴史は二度繰り返されるから興味深く学ぶ意味があるのではないかという疑問と同じようなことなのかもしれません。