今回は、加藤文元著『数学する精神 (増補版)』に基づき、「数学の研究」において「どのようなことが認識され指針とされているのか」を探ってみたいと思います。
数学と哲学の共通点
加藤文元著『数学する精神 (増補版)』(中央公論新社, 2020)を読んで私が感じたことは、数学と哲学には意外に共通点が多いことでした。
数学も哲学も、「人間の認識」についての理解が、根本的な背景として存在していたり、探究テーマになっている気がします。
実際に、上記の本によると、数学では「無限に続くこと」や「無限に繰り返すこと」に対する「人間の認識」がしばしば問題となるようです。
例えば、連続性や極限に対する認識問題として「0.99999999999…が1に等しい」という数学の結論が、その本では、取り上げられていました。
さらに、数学的帰納法の「正しさ」も現実的に確認することができないことから、結局のところは、「人間の認識」の問題となってしまうようです。
一方で、私は、以前の記事で、ある哲学の文献に基づき、哲学における本質観取という方法を短く紹介しました。以下はその時の文章になります。
本質観取では、まず、「面白さとは何か」のような、絶対の正解はないが解きたい「問い」があります。
そして、この「問い」に答えるには、どのような概念(=キーワード)を芯(しん)として又は始発点として考えれば、より多くの人が納得できる「答え」つまり「本質」に辿り着くかをみんなで考えるそうです。
この時に、この「問い」に関心のある人々から多くの「経験的な答え(事例)」が提案されるようですが、それらの「経験的な事例」の中から「芯になる概念」(=最も共通していて適切と思えるキーワード)として取り出されたものが「原理」(=本質)と呼ばれるそうです。
そして、「原理」となったものをさらに多様な価値観をもつ人々が検討および改良することで、「原理」を多くの人々の相互承認の下で「普遍的なもの」(誰もがそう考えざるを得ないもの)に鍛え上げて行くそうです。
以上が本質観取の方法の原型であるそうです。
上記の本によると、この本質観取の方法が、数学の世界でも使われているようです。
数学の世界では、いくつかの公理(=根本原理)を仮定して、数学理論を構築して行く(つまり定理を導出して行く)ようですが、その数学理論つまり公理系の内部に、矛盾がないことは、その公理系内では証明できなようです。
ゆえに、ある公理系の無矛盾性を証明するには、その公理系の外に新たな公理系を構築して証明するしかないようです。
しかし、その新たな公理系も、その公理系に矛盾がないことは、その公理系内では証明できなようです。
つまり、公理系の無矛盾性の問題は、根本的に解決することが難しいようです。
言い換えれば、公理系の無矛盾性は、多くの数学者により常にチェックされることで、保たれているとも言えます。
これは、正に、哲学の「原理」が、多くの人々(=哲学者?)の相互承認の下で、「普遍的なもの」と見なされていることに似ています。
つまりは、数学の理論でさえ、絶対的な物・完全に客観的な物ではないと言うことだと思います。
さらに、哲学によれば、「人間の認識」には、結局のところ、主観的な「確信」だけがあるそうです。
ゆえに、「人間の認識」は「他の人間」に外から承認されることで「普遍的な認識」を手に入れているようです。
ここで、「普遍的な認識」とは、誰もが納得して共有できる認識のことで、客観認識とも呼ばれます。
この解釈を数学に対応させると、次のようになります:
公理系には内的な「正しさ」(=定理の証明)だけがあり、公理系は「他の公理系」に外から証明されることで、「無矛盾性」(≡外的な「正しさ」)を手に入れている.
言い換えれば、数学に「無矛盾性」(=外的な「正しさ」)を与えているのは、数学自身ではなく、人間達であるということになるのだと思います。
哲学の「原理」に外的な「正しさ」を与えているのも人間達です。
哲学における外的な「正しさ」とは、誰もが納得できる共通了解のことになります。
数学と科学の共通点と相違点
上記の本によると、数学の研究においても、自然科学の研究と同様に、仮説やモデルまたは予想を立てることで、問題や課題を攻略しようしたり目標や目的を達成しようとしたりするようです。
そして、数学においても、日常における具体的な又は直観的な数理現象を、そのまま表現・認識し、問題(=不思議や疑問など)に取り組むのではないようです。
そうではなく、具体的な数理現象をいったん抽象化し、問題に応じてモデル化(一般化や共通化)することで、目に見えていた事(現象)だけでなく、見えていなかった事まで取り扱えるような概念や理論を構築するようです。
ただ、その本によると、数学における基礎理論の発展・進歩は、長い時間をかけて成されることが多いようで、「経験から修正・一般化のプロセス」を経て徐々に形成されて行くようです。
自然科学の理論、つまり物理学の基礎理論も、似たような感じで発展・進歩していると思います。
一方で、数学と自然科学の相違点は、理論の「正しさ」を検証する方法にあるようです。
つまり、自然科学の理論は、自然現象との整合性を検証することで形成されて行きますが、数学のモデル(公理系)は「内的な整合性」とでも呼べるものによって検証され形成されて行くそうです。
ここで、「内的な整合性」とは、多くの数学者が認める・信じる「真理」や「正しさ」または「美しさ」に基づく「矛盾を含まない客観的な判断」や「感覚的な(主観的な)判断」のようなものであるようです。
数学における「意味」とは何か
上記の本によると、数学者は、数学の記号に「意味」を与えるだけでなく、「数学的な発見」や「公理系などから導出された数式」から「意味」を読み取ったり「意味」を見出したりしているようです。
それでは、数学における「意味」とは、何なのでしょうか。
「数学の世界(数式)」と「現実の世界」を「対応づける」又は「関係づける」ものが「意味」でしょうか。
例えば、物理学は、数学の数式に特定の「意味」を与えていると考えて良いのでしょうか。
また、数学において「ある事柄(数式や概念)」と「別の事柄(数式や概念)」を「対応づける」又は「関係づける」ものも「意味」なのかもしれません。
つまり、一見異なる事柄の間に何らかの対応関係や関係性がある時、数学では「意味」という言葉を使うのかもしれません。
ここで「意味」という言葉は、数学の学術用語や専門用語ではないので、ご注意頂ければ幸いです。
なお、哲学によれば、「意味」とは、人間の欲望や関心に応じて生成される「対象に対する脳内での総合的な了解」のことであるようです。
ゆえに、数学者(つまり人間)は「何か」と「何か」が繋(つな)がることに関心があるのだと思います。
「何か」と「何か」を繋げるというのは、脳(ニューロン)の基本的な(本能的な)性質なのかもしれません。
確かに、数学は「何か」と「何か」を繋げられるように無駄(特定の意味)の省かれた極めて洗練されたフォーム(形式)をしていると思います。
ちなみに、哲学の視点から数学の問題を捉えると、数学の問題はどのように捉えられるのでしょうか。
数学の問題は、哲学が言うところの「意味や価値の問題」なのでしょうか。
それとも、論理体系的な又は科学的な「客観事実の問題」なのでしょうか。
それとも、以上のことを総合した「人間の認識の問題」なのでしょうか。
数学の「美しさ」とは
上記の本によると、数学者は、次の理由によって数学していて数学に「美しさ」を感じることがあるようです。(すぐ下で、「整合」の辞書的意味は、一貫性があり矛盾がなく、前後や上下などの対称性が整っていることです。)
- 整合的である
- シンプルである
- 普遍的である
- 背景に奥深さを感じさせる
- 意外である
- 実在感を感じさせる
- (論理の自然な)「流れ」を感じさせる
さらに、その本によると、数学者は、数学の研究に取り組んでいる際に、色々な物事の組み合わせがある中で最も「美しい」と思うものがその研究課題の本質(=答え)であると考えることがあるそうです。
つまり、「美しさ」は数学者にとって問題解決のための重要な指針にもなり得るものであるということになります。
私は理論・計算系の研究をしていますが、数学者ではないので、数学の「美しさ」については全く語れませんが、私は学生時代からこの「美しい」という言葉遣いに少し違和感があります。
もっとふさわしい言葉があるような気がしますが、ズバリと言い当てることはできません。
「美しい」の代わりに、「エレガント」という言葉が使われることがありますが、これも少し違うような気がします。
ちなみに、私が理論・計算系の研究をしていて、数学的な導出やその導出結果などに対して、たまに感じる印象は、次の言葉で表されるかもしれません。
- スマート
- 鮮(あざ)やか
- 不思議なほどに綺麗(きれい)
- 体系性や統一性、つまり「知識同士の論理的な繋がり」を感じさせる
- 芸術的な感動がある(又は芸術的な高揚感がある)
どうでもいい事になりますが、私は普段からあまり「美しい」という言葉を使わないような気がします。ゆえに、「美しい」という言葉遣いに違和感があるのかもしれません。
余談:論理の自然な「流れ」について
私も論文などを読んでいて、文章の論理が自然に流れていると、芸術性や「著者の頭の良さ」を感じることがあります。
ただ、私の分野では、開発した計算法を直ぐに真似されたくないためか、文章の論理(=開発された理論・計算法の説明)がハッキリ書かれていないことも少なくないです。
一方で、論文を書き慣れていない方が、論文を書くと、恐らくわざとではなく、本当に何だか「論理の流れ」が分かりにくいこともあります。
しかし、私の分野の「ある一流の研究者の方」は、シンプルに書けることをなぜか非常に分かりにくく又は難しく書いてしまう癖(?)がある方がいらっしゃいました。
発想力が豊かな研究者の方は、取り敢えず自分の頭の中のアイディアをそのまま、つまり「ごちゃごちゃ」したまま表現してしまうのかもしれません。
表現は「ごちゃごちゃ」していて難しいのですが、その核心となっているアイディアは優れたもの(力があるもの)であるため、その方は評価されているのだと思います。
ただ一方で、何となく違和感のある又は言い訳じみた又は「ごちゃごちゃ」した論理の「流れ」の理論・計算法は、私の分野では、生き残っていないことが多いような気がします。
自然と、シンプルで論理の流れがスパッと通っているような理論・計算法が、私の分野では、生き残っている感じがします。
科学の研究でも役立ちそうなヒント
上記の本には、数学や自然科学の研究で役立ちそうなヒントがたくさん載っています。
ここでは、それらのヒントの一部を短く紹介し、研究者の視点から少しコメントして行きたいと思います。
- 閃きによる発見にはルールに縛られない発想がいる、いつもできるとは限らない.
- 「発見」は数学だけでなく他の自然科学でも最も重要な創造的行為.
- 機械的な演算では気付かない「パターン」「類似性」「対称性」に気付きたい.
- メタ的な視点に立って問題(計算結果)を眺め直してみることが「発見」に繋がる.
- 証明や論理的な検討の前に、直観で問題の本質を見抜く・予想する.
- より基本的なレベルに立ち返って、問題の本質を見抜く.
- 「見える」事象から得た数学の世界の裏に「見えない」影の部分が隠されている.
- 実はその「影」の部分こそ圧倒的な存在感を与えるものになっている.
- 有理数より無理数の方が圧倒的に多い、有理数は例外.
- 図形的な直観を用いることで、実際の式の計算の負担を軽減できることがある.
- 数学者は出発点から前に進みながら、目的地からも後ろに道を探っている.
- 「正しさ」が数学という行為における最も重要な契機の一つである.
- 数学における「正しさ」とは「証明がある」ということ.
- 正しさのためには証明が必要で、証明のためには正しさが必要である.
1)について。数学者の方から「いつでも閃(ひらめ)くとは限らない」と言って頂けると、何だか心強いです。ただ、数学者の方は、閃くまで考え続けることが多いようですが。
2)について。やはり重大な「発見」というのは中々できないので、それだけ価値があるのだと思います。
3)について。確かに「パターン」認識に優れている方は、研究でも有利なのかもしれません。
4)について。各分野の研究室や学会または同族グループに所属していると、集団心理的な「しがらみ」(思い込み)が強く働いてしまい、意外と「メタ的な視点」に立てないことが多いような気がします。
5)について。「答え」が存在するのかすら不明な研究の世界では、確かに、独自の予想や直観的思考が重要になると思います。直観は研究者の行動指針になっていると思います。
直観力は、研究者にとって一つの重要な才能なのかもしれません。
6)について。私の分野での「独創性の高い研究」は、基礎や根本に立ち返って発想された研究であることが少なくないです。
7)~9)について。確かに現在の宇宙論では、宇宙を構成する成分の95%が「見えない」影の部分(未知のダークエネルギーやダークマター)で、我々に「見える」普通の元素は5%程度であると考えられています。
10)について。私の分野では、実際に図形的な表現法を使うことで、機械的な長たらしい数式の導出を軽減しています。
11)について。確かに、私の分野の「ある研究者」は、目的地(ゴール)から逆算してある条件を導き出し、その条件を満たすようにある理論を開発しました。
数学者には、まず「真理」(目的)が先にあって、その「真理」を「定理」とすることができる論理システム(公理系)を巧妙に選択してしまうところがあるそうです。
12)~14)について。他の自然科学にはない数学の世界の独特な考え方のような気がします。なお、私の分野の「正しさ」は、物質科学の領域で、高精度で高速な計算ができる理論・計算法を開発することになると思います。
ただ、人間にとって都合が良いそのような高精度で高速な計算法が存在するのかは不明です。