今回は、量子力学の確率解釈は、「客観的な事実なのか」それとも「主観的なもの(人間の頭の中の認識)なのか」という議論を紹介します。
量子力学と確率
量子力学の根本原理は、シュレディンガー方程式と呼ばれる方程式です。
ミクロな世界(微視的な世界)の理解は全てこの方程式から始まります。
例えば、水素原子のシュレディンガー方程式を解くと、水素原子の中に存在している電子の振る舞いが分かります。
より具体的に言うと、
- 水素原子中で電子がもつことができるエネルギー(1つだけではなく多数あり)
- そのエネルギーをもつ電子が(原子核の周りに)存在する可能がある場所(=存在分布)
が分かります。
電子がもつことができるエネルギーは実数値(-13.6 eV)で得られ、確定的です。
このエネルギーは、真空中にぽっんと1つ漂っていた電子(=0 eV)が、Hの原子核と結び付いて安定化したことで得たエネルギーです。
一方で、電子が存在するだろうと予想される場所・空間・分布は、確率で表され、曖昧さがあります。
例えば、「69%の確率で電子は原子核の周りのこの場所に存在するだろう」という感じになります。
つまり、シュレディンガー方程式を正確に解いても、電子がどこに存在しているのかは確率的にしか分からないのです。100%の確率でこの位置にあるという予測はできません。
太陽の周りを地球がどのように回っているのかは、ニュートン方程式を解くことによりかなり正確に予想できます。確率を持ち出す必要はありません。
つまり、地球の存在は確定していて、その地球がどのような軌道を描いて太陽の周りを運動しているのかがニュートン力学(=古典力学)では問題になります。
一方で、量子力学では、古典力学とは違い、電子が描く軌道というものは得られません。原子核の周りにあるだろう電子の存在が確率で得られるだけなのです。
つまり、量子力学での電子の存在イメージは非常に分かりにくいです。
敢えて言うならば、原子核を中心としてその周囲の3次元空間の各点にその存在を表す確率が割り振られているようなイメージになります。
ちなみに、存在確率が特に高い点の集まりが作り出す曲面を3次元空間に図示したものが、s軌道、p軌道、d軌道、f軌道というものになります。
電子は本当に確率的な存在なのか
ここで、問題になるのは、電子というものの「真の姿」です。
つまり、電子は、現実的に・客観的に確率的な存在として、つまり常にどこにあるのか確定してないもの(常にあらゆる可能性を秘めたもの)として世界に存在しているのか、
それとも、現実的には、電子の位置は常に確定している(常に一つの可能性しか持たない)のだが、今のところ人間がその位置を通常は正確に捉えることができないだけのことなのか、
という問題です。
ちなみに、人間は、二重スリット実験ような特別な測定実験によって電子の位置を正確に知ることはできます。つまり、この場所に電子があったのだということは知ることができます。
しかし、測定実験の前に、事前に電子の位置を正確に予測することはできません。つまり、測定してみないと、実際に電子がどこにあるのか分からないのです。
なお、ニュートン力学の世界観では、物体の位置は常に確定していて、観測・測定実験の前に、物体(例えば天体)の位置を正確に予測することが可能です。
ただ、量子力学でも、シュレディンガー方程式の解から得られた確率を使って、ここにある可能性が高そうだと予想することはできます。
例えば、74%の確率で、電子はこの点(=この微小空間)にありそうだということは分かります。逆に、89%の確率で、電子はこの点(=この微小空間)にはないだろうと予測することはできます。
人間は、天気を正確に予測することができないので、電子の位置を正確に予測できないのも、驚くべきことではないと考えることもできます。
ただ、天気の予測には、不確定な要素が含まれているため、正確な予測ができないと言い訳する余地があります。しかし、電子の位置の予想には、不確定な要素がないにもかかわらず、原理的に正確な予想ができないという特徴があります。
ニュートン力学の決定論的な世界観(=100%こうなるだろうと予測できる世界観)に慣れ親しんで来た物理学者たちには、物理学の理論に確率を取り入れることにかなりの抵抗があったようです。
人間の認識と量子力学
電子が客観的にも(現実的にも)確率的な存在であれば、量子力学は外界を正しく記述していることになるそうです。
しかし、客観的には(現実的には)、電子は確率的な存在でない、つまり、人間にとってのみ、電子は確率的な存在であるならば、量子力学は客観的なものではなく人間的なものになるようです。
量子力学は、人間しか使わないので、人間的なものであっても良いのではないかと思うかもしれません。
しかし、人間的なものであるとすると、量子力学は外界を正しく記述していないかもしれません。
つまり、人間が認識した外界、人間が認識できる外界を記述したに過ぎないかもしれません。すると、結局のところ、人間は宇宙を正しく理解することはできないということに繋(つな)がるかもしれません。
なお、量子力学の根本原理であるシュレディンガー方程式からは、電子が確率的な存在かどうかは判断できないようです。
つまり、シュレディンガー方程式を解いて得た解(=波動関数)が何を示しているのかは、良く分からないところがあるということになります。ただ、解(=波動関数)から電子の存在確率が計算されるという解釈は、多くの科学者たちに受け入れられています。
しかし、電子が実際にどのような運動をしているのかは、確率解釈からは分からないのです。ただ、電子が波の性質と粒子としての性質の両方を示すことから、電子の運動は、古典力学での物体の運動とは違うものであるとされています。
なお、古典力学では、因果性の他に、確定性と連続性が大前提になっているそうです。
ここで、確定性というのは、対象の存在が確定していて、あるのかないのかが確定できない存在ではないこと、つまり、確率的な存在ではないことを意味しています。
連続性というのは、対象の存在が急に消えたり急に現れたりせずに、対象の変化(運動)が滑(なめ)らかで連続的であることを意味しています。
因果性というのは、物事には、原因があって、結果が生じるという関係があることを意味しています。
そもそも確率とは何か
ここまでの話をまとめると、電子が客観的にも確率的な存在であれば、量子力学は外界を正しく記述していることになり、何ら問題がないことになります。
それでは、そもそも確率とは何でしょうか。
確率という表現は、人間が物事の詳細な情報、主に原因を知ることができない時に使う表現で、不完全な情報のもとで人間がもつ信念の度合を表していると考えることができるそうです。
なお、不完全な情報は、情報が途切れているとも考えられるので、非連続性(不連続性?)に繋がるものかもしれません。つまり、確率は非連続性に関係していると考えることができます。人間の記憶は連続的なので、非連続なものに不安を感じるのかもしれません。
人間がミクロの世界を知るための原理として発見できたものは、シュレディンガー方程式ですが、シュレディンガー方程式だけでは、ミクロの世界を完全に記述する・把握するには情報が少な過ぎるのかもしれません。
それゆえに、確率という表現を今のところ使っているのかもしれません。
追加の原理が発見されれば、確率という表現を使う必要がなくなるのかもしれません。
ただ、人間も原子や分子の巨大な集合からできているので、必然的に世界の把握(情報の入手)には限界があると予想されます。
その限界が確率という形で表現されていると考えることもできます。
つまり、量子力学は、人間の限界に到達していると考えることもできます。
その限界で世界が正しく把握できていれば問題がないのかもしれません。
しかし、把握できていないのだとすれば、結局、人間は人間の限界(認識や記憶の仕組みなど)から逃れられず、宇宙や生命を完全に理解することはできないのかもしれません。
ただ、それでも人間のメタ認知能力(=自分自身を超越した場所から物事や世界を客観的に捉える能力)は素晴らしいと思います。
偶然性とは
確率論の枠組みでは、物事は原因に伴(ともな)う偶然性によって結果が変わると考えられているそうです。
自発的対称性の破れは、偶然性によって結果が変わる例と考えても良いのかもしれません。
偶然性というのも、不完全な情報、つまり原因が不明であることから生まれるものなのでしょうか、それとも、完全な情報を持っていても何らかの複雑な相互作用から偶発的に引き起こされてしまうものなのでしょうか。
「電子は客観的にも確率的な存在である」ということが正しいならば、自然世界の枠組み(原理)の中に予め偶然性というものが組み込まれているということでしょうか。
つまり、何らかの複雑な相互作用がなくても、つまりは一切の原因がなくても、偶然性の原理みたいなもので、偶然が突如起こるということでしょうか。
非常に難しいところだと思いますが、果たして、電子は客観的にも確率的な存在なのでしょうか。
ある文献はこの問いに対して1つの示唆を与えてくれています。その文献によると、
真空は、空っぽではなく、光(電磁波)の場で満たされており、光子が生まれたり消えたりしている。真空中を電子が通ると、これら光子(実験では観測されない、「仮想的な光子」であることに注意)によって、電子はブラウン運動に似たジグザグ運動をおこす。こうしたランダムな動きによって、電子の位置や速度は確定できなくなり、確率でしか物事がいえなくなる。
引用元:林久史,『波動関数のわかりやすい説明』, 日本女子大学紀要 理学部 第24号, 2016.
そうです。
この示唆が正しいならば、人間の測定や観測の限界性のために「電子は確率的な存在(常にあらゆる可能性をもつ存在)である」と結論している(見なしている)可能性があります。
参考文献
1) 確率の哲学に関する講義ノート:https://phil.flet.keio.ac.jp/person/yosaku/
2) 林久史,『波動関数のわかりやすい説明』, 日本女子大学紀要 理学部 第24号, 2016.
おまけ:生成と消滅は偶然性によるのか
人間には確認(検証)できないところに踏み込んでいるかもしれませんが、上述の光子の生成と消滅は、偶発的に起こっているのでしょうか、それとも、何らかの原因や仕組みがあって起こっているのでしょうか。
つまり、その生成と消滅は、人間には、偶発的に起こっていると見えているだけでしょうか。
それとも、自然世界の枠組み(原理)の中に予め偶然性というものが組み込まれていることを示唆しているのでしょうか。
人間には、複雑な相互作用が絡み合うと(多体相互作用)、上手く原因を分析・認識できなくなるという特徴があるのかもしれません。
ゆえに、複雑な問題に対して、人間は、主要な要素に分割して原因(本質)を考えるのかもしれません。
多くの物事が複雑に相互作用していそうな現象でも、局所性の原理みたいなもので、中心部分(関心のある部分)とその周辺を分析すれば、だいたいのことは分かるのかもしれません。
ただ、やはり予想外のポイントが中心部分に関与している場合が問題になのかもしれませんが。
例え世界が解明不可能なものだとしても、世界の原理(本質)に近付こうとすることに人間は意味・価値を見出してしまうのかもしれません。世界を探究することが、本質(原理)として、人間には組み込まれているのかもしれません:知欲。
「知って、繋げて、新たな世界(世界観)を作り上げる。そして、去る」ことができるのが、優れた研究者なのかもしれません。
ただ、原理に近付き過ぎた人間達がどうなるのかも興味深いです。ちなみに、水素原子の電子は、原子核から程良い距離(ボーア半径)のところに存在する確率が最も高いです。マイナス電荷がプラス電荷にいくら引き寄せられるからと言っても、くっ付き過ぎてはいけないと言うことでしょうか。(ただ、水素原子の電子は、原子核の位置に確率密度を持っているので、原子核と接触することができる(原子核を貫通することができる)と考えられるようです。)