ヨーク研究所
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科学

人間の本質を少しだけ探る

今回は、様々な角度から「人間の本質」を少しだけ(部分的に)探ってみたいと思います。

人間の本質を考えるヒント

以下では、人間の本質を考える上でヒントになりそうなことを述べて行きます。

遊び

高校の倫理の教科書(清水書院)によると、理性は「遊び」を通じて発達したそうです。

さらに、その教科書によると、

「『遊び』は自由な行為であり、義務や現実的な利益とは無関係に、日常生活とは別の限定された時間と空間の中で、一定の規則(ルール)に従って秩序正しく行われる」そうです。

この文章は、以前の記事でご紹介した「欧米の芸術界には暗黙のルールがある」という現代美術家の方の主張と繋(つな)がるものがあると思います。

つまり、芸術・表現は自由なのですが、ある一定のルールはあるという欧米の芸術観や芸術評価に一致するところがある文章だと思います。

さらに、その教科書によると、「裁判や祭り、スポーツ、芸術や哲学など、人間の生活を豊かにする全ての文化は遊びの形式の中で発生した」と考える歴史家もいるそうです。

つまり、芸術の根本には「遊び」があるということだと思います。

さらに興味深いことに、その教科書によると、「子供たちが遊びを通して人生の喜びを身に付けて行くように、人間に様々なものをもたらし、日常生活における仕事を支える基礎となるのが遊びである」そうです。

つまり、「遊び」は「人の心の救済」にも「人間の生の享受(=味わい楽しむこと)」にもなっていると考えることができます。

以前の2つの記事で、私は「芸術の本質」を探って来ましたが、「遊び」というキーワードは提示できていなかったと思います。

このように考えると、「遊び」は実は奥深いもののように思えて来ます。

確かに、研究者にも、研究(仕事)しているという感覚よりも、遊んでいるような感覚がたまに現れ出ることがあるような気がします。

そういう意味では、子供は思い切り遊ばせて、「遊ぶ」という感覚をきちんと身に付けさせた方が良いのかもしれません。

ノーベル賞受賞者の方でも子供の頃は勉強せずに遊んでいたという方もいらっしゃいます。

ちなみに、私も子供の頃は勉強せずに外で創意工夫して友達と遊んでいました。

やはり、思い切り遊んでいないと、突然変異みたいなモノは生み出せないような気がします。

ここで、私が言う「遊ぶ」には、自由にリラックスして思い切り好きな事・やりたい事に取り組むの意を含んでいます。

さらに、その教科書によると、「美は、個人的・主観的なものであると同時に、他者との共同を求める人間のあり方とも深く結び付いたもの」であるそうです。

この美の性質は、「人間の認識」と関係しているのかもしれません。

以前の記事で、私は「私たちの身の回りの認識対象は、客観的、一般的な物事であると同時に、自己の欲望や関心に応じた意味や価値をもつ物事として認識される」ことを紹介しました。

つまり、「美」という前に、そもそも「人間の認識」が主観的なものであると同時に客観的なものと深く結び付いたものなのではないかと言うことになります。

もう一度、芸術という現象で行われていることを考えてみると、

  • 個人の主観的な感動(価値)を他者に伝えること・表現すること、また、
  • 他者の主観的な表現を感受し、批評したり共感したり感動したりすること

が思い付きます。

そして、多くの人に共感や感動(価値)をもたらした表現は、歴史的に見て(時の淘汰を経て)、客観的なもの、一般的なものになって行くのだと考えられます。

つまり、芸術という現象には、「主観的なもの」が「客観的なもの」に変化する・成長するプロセス(原理?)が含まれていそうです。

それでは、多くの人に共感や感動(価値)をもたらした表現の根源にあるものは、何でしょうか。

もしかすると、そのような表現の根源にあるものは、「遊び」(人間の関係的世界?)の中から発見された「人間の生きることを支える正のエネルギー的なもの」なのかもしれません。

一方で、最初は否定されていた表現(見向きもされなかった表現)でも、表現者と感受者が上手く相互作用できていると、共感して広めてくれる(客観化してくれる)感受者が出て来るという現象があると思います。

この現象は、人間の本質的な性質(原理)なのでしょうか。

また、「表現者と感受者が上手く相互作用できている」とは、どういう事なのでしょうか。

これらの疑問は、難しい疑問なので、また別の機会に探究してみたいと思います。

ちなみに、その教科書によると、日本には、簡素・清貧の境遇に美を見出す「わび」「さび」の精神や、欠如や不足の内に美を見る思想があるそうです。

想像する力

松沢哲郎著『分かちあう心の進化』によると、「想像する力」をもつことが人間の本質であるようです。

想像する力によって、相手の心を理解し、今ここにないものを思い浮かべて他者に伝えようとするそうです。

そして、そこから言語も芸術も生まれたと考えられるそうです。

やはり、芸術は、人間の本質的部分(ここでは想像する力)との関わりが大きく、他者や自己の心の理解と他者への表現がその起源になっているようです。

言語と分節化

人間には、連続して聞こえる音声を単語に区切って理解する能力があるそうです。

この能力は、脳科学の分野で「分節化」と呼ばれています。

この分節化の概念は哲学の分野でも使われています。

実際に、竹田青嗣著『哲学とは何か』によれば、「認識とは、個々の生き物のうちでその欲望‐身体(=力)と相関的に生成される、一つの『世界分節』に他ならない」そうです。

ここで「世界分節」とは、世界を意味のまとまりとして区切ることを指しています。

それでは、もう少し具体的に「世界分節」を説明してみたいと思います。

例えば、人が次の風景を見る時、人は一つの連続した風景として認識している訳ではなく、

空、海、芝生、木、レンガの建物、車、道、旗、屋根というように単語(概念)によってものを区切り、部分的に認識しているようです。

このため「言語が世界を分節する」とも考えられているようです。

実際に、虹が何色に見えるかは、言語によるようです。日本では7色ですが、西洋では6色で、モンゴルでは3色であるそうです。

逆に言えば、人間はその概念(単語)を知らないと、物事を連続したモノ、一連のモノ、全体的なモノとしてぼんやりと認識してしまうと言うことだと思います。

ゆえに、様々な概念を学び、物事をハッキリと認識することが重要になるのかもしれません。

実際に、「雲」という概念を知らない人には、上の風景の空は、水色に「白いもの」が混じった全体としてぼんやりと認識されてしまうのだと思います。

ちなみに、人間が(言語によって)ハッキリと認識すると、ある物(ある存在)が確定するという考え方は、量子力学の解釈問題においても登場します。

言語の性質と「生きる意味」の性質

さらに、心理学者の方の文献によれば、「単語の意味は単語単体では決まらず、それぞれの意味領域の中に属する一群の関連する単語どうしの間の関係の中で決まる」そうです。

また、『哲学とは何か』によれば、「実際の言語行為では、我々は誰かの言葉を文字通りに理解することは決してない。その他コンテクスト(文脈)に応じて、自分なりにこの言葉を了解する」そうです。

この言語の性質は、AIによる文章や書物の読解を困難にしている主要な原因の1つであると考えられます。

ここで急に飛躍しますが、上の心理学者の方の文章で「単語」という言葉を「人生」という言葉に置き換えてみます。すると、

「人生の意味は(個人の)人生単体では決まらず、それぞれの意味領域(つまり社会?)の中に属する一群の関連する人生どうしの間の関係の中で決まる」となります。

何となく「言語の性質」と「人生の意味(=生きる意味)の性質」が上手く繋がってしまったような気がします。

なお、ある哲学者の方によると、「人間は、自分の幻想価値(理念的―ロマン的世界)を他者という現実に晒(さら)し、試すことで、己の幻想価値をくりかえし吟味(ぎんみ)し、豊饒化(ほうじょうか)させてゆく存在であり、その営みが<人間の生きる意味>になる」そうです。

やはり、「言語の性質」と「生きる意味の性質」は似ていると思います。

ちなみに、『哲学とは何か』によれば、「言語ゲームの中で言語の意味は多様な『信憑』の構造をもちうる、という意味で受け取られねばならない」そうですが、ここでも言語→人生と変換すると、「人生ゲームの中で人生の意味(=生きる意味)は多様な『信憑』(=確信)の構造をもちうる、という意味で受け取られねばならない」となります。

本筋に戻りますと、詰まる所、人間という生き物は、当たり前のことかもしれませんが、完全自立型の生命体ではないのだと思います。

常に環境(他者や社会なども含む環境)に依存してしまう生き物であると言えるかもしれません。

確かに、環境に依存していない生き物は存在しないかもしれません。

宇宙生命体が存在したとしても、その生命体は何らかの環境依存性を持っていると考えられます。

また、ここで重要なことは、身体(物質から成るモノ)も精神(意味や価値)も共に環境依存している点だと思います。

面白いことに、人間が生み出すあらゆるモノも完全自立型のモノではないのだと思います。

実際に、数学の理論でさえ、自身の無矛盾性を自身では証明できません。

そもそも、宇宙には完全自立型・完全独立型なモノは存在しないのかもしれません。

何らかの形で必ず他のモノと相互作用してしまうと言えそうです。

よって、いかなる人の「生きる意味」も必然的に完全独立型のモノではないことになります。

また、宇宙全体が一つのモノ(一つの量子状態)であるという考え方もあります。もともと宇宙は極小の空間でそこに全ての素粒子が一斉に生まれ出たと考えられているので(いわゆるビックバン)、全てのモノは全体の一部として存在しているという考え方にはある程度の妥当性があるのかもしれません。

そうすると、メタ的な視点をもって宇宙の誕生を語れる意識というものが、なぜ宇宙に誕生したのかが非常に不思議です。物質(素粒子)と意識(物質ではないモノ)の間には大きな隔たりがあるような気がします。

宇宙や物質(素粒子)が先に存在して、次に意識が生まれたと考えるから、理解できなくなるのかもしれません。意識が先に存在して、次に物質や宇宙という知覚対象・認識対象・概念・科学が生まれたと考えると上手く解けるのかもしれません

現実世界と考えられているものも、実はVRの世界に似ているものなのかもしれません。

今後、人間の意識や認識の研究が進めば、これまでの宇宙や物質に関する仮説や理論が修正されることもあるかもしれません。

話を戻しますが、実際的には、ある条件下での「準完全自立型なモノ」が問題となるのかもしれません。

四柱推命

四柱推命という、古代中国の思想、つまり陰陽五行説に基づく占星術(古代中国では学問)があります。

四柱推命では5つの「星」を用いて人間の運命(自分の生き方や道を知るためのヒント)を推し量ります。

その5つの「星」には、

  • 自星(じせい) (=比劫星(ひごうせい))
  • 洩星(ろうせい)(=食傷星(しょくしょうせい))
  • 財星(ざいせい)
  • 官星(かんせい)
  • 印星(いんせい)

があります。

自星というのは、自分の意志、主体性、競争心、エゴなどを表す星です。

洩星というのは、表現力、本能、感性、創造性などを表す星です。

財星というのは、人との交流(社交性)や経済能力(お金との縁)などを表す星です。

官星というのは、組織、規律、実行力、社会性などを表す星です。

印星というのは、勉強、習得、深く考える力などを表す星です。

そして、これらの星には次の関係性があります。

  • 自星は洩星を生み出し、
  • 洩星は財星を生み出し、
  • 財星は官星をを生み出し、
  • 官星は印星を生み出し、
  • 印星は自星を生み出します。

つまり、これらの相生関係は次のように解釈できます。

まず自星の中で生まれた自分の思い(意志)を、洩星で巧みに表現します。

すると、思い(意志)が外に表現されたことで、財星で人と人の繋がりやお金との繋がりができて来ます。

人との繋がりや商売力は、官星で組織になり、組織は自分を律する存在となります。

そして、組織で地位(ポジション)や任務(役割)を得た自分は、印星で役割を果たすために色々と考え勉強します。

すると、その勉強や学びは自星で自分を成長させることになります。

成長した自分は、自星でまた新たな意志(思い)を生み出します。

人間には、このようなサイクル(仕組み)があるというのが、四柱推命の考え方になります。

なお、四柱推命には多くの流派があり、流派によって基本的な考え方がかなり違うこともありますので、ご注意頂ければ幸いです。

今回、注目するべき星は、洩星です。

洩星は、表現力・発言力などを表す星で、創造性や芸術性に関係すると考えられています。

また、洩星は、「人間の本能」「遊び心」「自由」「センス」「技術能力」「子供」を表すとも言われています。

また、洩星には、自分のエネルギーを外に洩(も)らすという意味もあります。

人間の本質を考える出発点として、洩星という考え方を知ることは意味があると思いましたので、ご紹介しました。

上述の関係性からすると、洩星の源には、人間の意志や欲望があることになります。

意志や欲望が人間の本質でしょうか。

意志は人間以外の生き物にもあると考えられます。しかし、動物の意志は本能に近いのかもしれません。

すると、やはり、人間の意志(欲望)や価値観というのは、人間の関係的世界(家庭や社会での関係性)で形成されると考えるのが妥当なのかもしれません。