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科学

なぜ哲学者や科学者は本質を求めるのか

今回は、「なぜ哲学者や科学者は本質を求めるのか」を考えてみたいと思います。

学者が本質を求める理由

本質には、謎や問題を解決する力があると考えられます。

つまり、本質を掴(つか)むと、難問をどうすれば解決できるかが見えて来るのだと思います。

逆に言うと、本質を掴んでいないと、いつまでも問題が解決できないのだと思います。

よって、哲学者や科学者は、研究対象の本質を掴むことに必死になります。

しかしながら、自然科学の世界では、どのようにすれば本質を掴むことができるのかは、一般的には知られていません。

つまり、研究を続ける内に、偶然、本質を発見してしまうこともありますし、論理的思考や直感的思考に基づく試行錯誤により本質を掴むこともあると思います。

一方で、哲学の世界では、物事の本質を掴む方法として、「本質観取(かんしゅ)」というものがあるようですので、後ほどご紹介します。

また、本質は、ある問題の一般解であり、特殊解ではないのだと思います。

ここで、特殊解というのは、ある問題の解(解決法)なのですが、より高いレベルで見ると一般性がなく、ある特定の条件の下でしか有効ではない解になります。

ただ、研究では、特殊解を手掛かりに、一般解に到達することも可能です。また、一般解だと思っていたものが、実は特殊解だったということは物理学の世界では良くあります。

例えば、ニュートン力学は相対論により修正され、より一般的な力学になりました。

そして、一般解である本質には、応用力があるとも言えます。(演繹力とも言えるかもしれません)

ここで、応用力とは、ある問題だけに適用できるものではなく、様々な他の問題にも適用・応用できるものであることを表しています。

例えば、特殊相対論は量子力学に適用され、より一般的な量子力学の基礎方程式を与えました。

以下では、哲学の世界で行われている「本質観取」を説明します。

認識論と本質観取の関係性

哲学における「人間の認識」の本質

「本質観取」を説明するには、「人間の認識」についての理解が必要なようですので、まず哲学的視点から「人間の認識」について説明したいと思います。

哲学のある文献によると、人間は、外界に客観的に存在する物、例えばリンゴを脳(内界)で主観的に認識している訳ではなく、人間が知覚した「もの」を脳(内界)で主観的に認識し、リンゴが外界に存在すると「確信」しているようです。

つまり、存在の順番として、まず客観的にリンゴが存在していて次に脳がそれを主観的に認識する訳ではなく、まず外界に対する人間の知覚による主観的な認識のプロセスというものがあり、次にリンゴが存在するという「確信」があるようです。

このような順番をとると、外界に客観的な(絶対的な)物が存在しているということを大前提にしなくても良くなるようです。

つまり、現代の哲学では、人間の全ての認識は主観的な「確信」のみであるということを大前提にするようです。

この大前提を使うと、「客観的」という言葉を使わずに、誰もが納得して共有できる認識つまり「普遍的な認識」というものを説明できるそうです。

簡単に言うと、哲学では、人間の認識に関して、いわゆる「客観的」という言葉を使うと、話がまとまらなくなるようです。

つまり、「客観的」という言葉には、「人間が共通して認識できるもの」という意味が含まれるため、個人の認識が複数人の人間がいないと確定しないものになってしまい、哲学的な議論を進める上でこのことは非常に不都合なのだと思います。

さらに言い換えると、「客観的」という言葉を使うと、個人の認識の話が自己完結しなくなるとも言えるかもしれません。つまり、その言葉を使うと、外界に何か「絶対的な真理」を仮定しないといけなくなるのだと思います。

という訳で、人間の全ての認識は主観的な「確信」のみであるそうですが、この「確信」は以下の3つに区分できるようです。

  • 主観的確信
  • 共同的確信
  • 普遍的確信

主観的確信というのは、個人的な主観に基づく認識で、人間同士の共通了解が成立しにくい確信です。例えば、価値観、感受性、審美性などはこの確信に関わるものです。

共同的確信というのは、宗教的・文化的な認識で、異なる宗教や異なる文化の間では共通了解が成立しにくい確信です。

普遍的確信というのは、数学、自然科学、基礎論理学などにおける人間の認識で(いわゆる客観認識で)、人間同士の共通了解が可能な確信です。

以上で、現代の哲学による人間の認識の話は終わりになります。

本質観取の役割

次に、この認識論を踏まえて、「本質観取」というものの役割や学問的な位置づけを説明します。

上記の文献によると、自然科学が取り扱うことができるのは、共通了解が可能な自然界の物事に限定されていて、意味や価値の問題(つまり主観的確信に関わる問題)を扱うことができないそうです。

そこで、主観的確信の領域、つまり人間同士の共通了解が成立しにくい領域(例えば人文科学の領域)において、「普遍的な認識」つまり誰もが納得できる共通了解を確保するための方法として「本質観取」と呼ばれるものが哲学では使われて来たようです。

また、ある記事によると、「本質観取」の基本は、「単に自分の確信というのではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造だけを適切に取り出して記述していくこと」であるそうです。

話が少し逸(そ)れますが、上記の文献によると、「数学はそもそも万人が共通の推論や答えを見出せるように作られた体系である」そうです。

ゆえに、自然現象の説明・解明に共通了解を得ようとする自然科学が数学を用いて語られることは哲学的には自然なことになるようです。

つまり、哲学的には、自然科学と数学は人間の客観認識(=普遍的確信)という点で繋(つな)がっているのだと思います。

そして、哲学での「本質観取」は、自然科学での「数学」に対応していると考えられなくもないそうです。

本質観取の方法

上記の文献によると、本質観取の方法を簡潔に述べるのは困難であるようですが、私なりにまとめてみたいと思います。

本質観取では、まず、「面白さとは何か」のような、絶対の正解はないが解きたい「問い」があります。

そして、この「問い」に答えるには、どのような概念(=キーワード)を芯(しん)として又は始発点として考えれば、より多くの人が納得できる「答え」つまり「本質」に辿り着くかをみんなで考えるそうです。

この時に、この「問い」に関心のある人々から多くの「経験的な答え(事例)」が提案されるようですが、それらの「経験的な事例」の中から「芯になる概念」(=最も共通していて適切と思えるキーワード)として取り出されたものが「原理」(=本質)と呼ばれるそうです。

そして、「原理」となったものをさらに多様な価値観をもつ人々が検討および改良することで、「原理」を多くの人々の相互承認の下で「普遍的なもの」(誰もがそう考えざるを得ないもの)に鍛え上げて行くそうです。

以上が本質観取の方法の原型であるそうです。

つまり、ある「問い」に対する多様な特殊解の中に共通項を見つけ出し、「対話(相互承認)」により共通項を一般解(=本質)へと昇華させて行くプロセスが本質観取ということでしょうか。

本質観取は自然科学でいうところの帰納的方法に対応するものなのかもしれません。

帰納法とは、ある記事によると「複数の事実や事例から導き出される共通点をまとめ、共通点から分かる根拠をもとに結論を導き出す方法」であるそうです。

なお、自然科学はこのような哲学の方法をそのまま受け継いでいるそうです。

確かに、自然科学でも、物理学の原理から導かれた多くの予測は、多くの物理学者により検証され、原理の確からしさが保証されることになります。

余談:本質の面白さ

哲学でも自然科学でも、数少ない「原理」(=本質)だけで、多くの問題や現象を解決・解明できてしまうところに面白さがあるのかもしれません。

「問い」に対する特殊解は無数にあると思いますが、どの業界や分野においても人間が発見できた一般解はまだまだ少ないと思います。

また、一見、多様で複雑な現象や事柄でも、「原理」(=本質)が理解できていると、一気に整理・分析できてしまうこともあると思います。