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科学

芸術の本質を探る

今回は、竹田青嗣著『新・哲学入門』に基づいて、哲学的な視点から「芸術の本質」を探って見たいと思います。

芸術とは何か

竹田青嗣著『新・哲学入門』(講談社現代新書)(講談社, 2022) に基づいて、「芸術とは何か」を調査し以下に短くまとめました。

芸術の役割・使命

上記の本によると、芸術は、「生きること」つまり「人間の生」を支えるものであるようです。

「人間の生」とは、人間社会の中で生きて行くことです。

人間社会を生きて行こうとすると、人間は、大抵の場合、多かれ少なかれ、何らかのストレスや不安を感じならが生きることになると思います。

例えば、社会的な秩序や平和を維持するためには法律やルールを守る必要があり、衣食住を維持するためには仕事をする必要があります。

また、死への不安や恐怖を感じながら生きることもあります。

そうすると、人間は、時に「生きること」に疲れてしまいますが、芸術は、その疲れを癒してくれるものの1つとなるそうです。

さらに、人によっては、芸術は「生きること」を充実させてくれたり享受させて(=味わい楽しませて)くるものでもあるようです。

また、人によっては、生きる意欲を与えてくれるものでもあるそうです。

芸術の本質

その本によると、芸術の本質は、作り手の思いが表現される「その仕方(表現性)にあるようです。

ここで、「その仕方」とは、恐らく、表現技術や表現技法を含む、自分の思いを他者に伝える表現それ自体のことだと思います。

なお、その本によると、人間は表現することによってのみ、他者と繋(つな)がることができるようです。

表現の仕方が芸術の本質なので、表現されているモノ・コト自体は、芸術の本質ではないということになるのだと思います。確かにそうなのかもしれません。

例えば、『モナ・リザ』で描かれている女性自身が芸術の本質ではないことは、何となく理解できます。ただ、小説などの場合はどうなのでしょうか。小説のテーマ自体は芸術の本質ではないということでしょうか。

芸術の評価法

芸術作品の価値を決めるのは、その作品に感銘を受けた人々が集う「批評の場」であるそうです。

芸術には「客観的な評価基準」はなく、個人の「これこそ芸術である」という主観的な「確信」の集まりが存在するだけであるそうです。

それゆえに、作品の評価や価値については、様々な疑問や課題が生じ易く反対意見が飛び交うことも多いようです。

例えば、その本によると、次のようなことが作品の評価基準になることもあるようです。

  • 既成の枠組みを攪乱しているか
  • 唯一の中心的観点を破壊しているか
  • 視点の複数性を確保しているか
  • 全く違った仕方で発想されているか

さらに、意外なことに、芸術においては、創作者の真の意図が何であるかは、問題にならないそうです。

創作者による「表現の威力」と鑑賞者のその「了解」との信憑関係だけが本質的なものであるそうです。

また、芸術で問題なのは価値上の差異であるそうです。

つまり、鑑賞者が作品にどれだけ強く感銘を受けたかどうかが問題ということなのかもしれません。

もしくは、鑑賞者が作品にどんな価値を見出したかが問題ということなのかもしれません。

いずれにしても、作品に感銘を受けた人々による多様な批評の結果として、「善きもの」「本当のもの」と確信された作品が、歴史的な時間の推移の中で、「古典作品」として生き残って行くそうです。

このように、歴史に残ることが、人類にとってその作品が価値あるものであることの証(あかし)なのかもしれません。

芸術と文化

芸術における普遍性(客観性)は、「善きもの」「本当のもの」を追求する創作者の表現の努力と、それを育てようとする鑑賞者たちの集合的な意志によってのみ現れ出るそうです。

別言すれば、芸術・文化的な領域から現れ出る「普遍性」(客観性)は、多様な価値観と感受性の違いがありながらも、それらに共通する「善きもの」の確信の形成として創出されて来るそうです。

また、文化の営みは、人間生活における内的な「価値」「欲望」の表現をその本質とするそうです。

そして、その表現が人々を結び付け合うようです。

「善きもの」の起源と美の起源

それでは、芸術作品の価値を左右したり、芸術家が追求している「善きもの」「本当のもの」とは、一体何なのでしょうか。

その本によれば、人間には、「人間の関係的な社会や生活」における「経験の諸感情」を統合し、それを極限化したり、完全化したり、理想化する能力があるそうです。

そして、この能力こそが、「善きもの」「本当のもの」の起源のようです。

ここで、「人間の関係的な社会や生活」とは、人間が他者と「価値」や「意味」を交換し合って生きていることを意味しています。

一方で、美の起源も「人間の関係的な社会や生活」の中に見出せるようです。

美は、特に人間的な価値の秩序に関係するものであるそうです。

そして、美は、本質的に生の「義務」や「当為(=なすべき事)」から逃れて、「自分の内部で生じる力によって生(世界)を享受することにその核心をもつそうです。

また、美的対象の本質は、人間の情緒的な情動(=一時的で急激な感情)を喚起し、そのことで「自分の内部で生じる力」の享受を促すことにあるそうです。

ここで、「自分の内部で生じる力」とは、何でしょうか。

「自分の内部で生じる力」とは、人間的で私的な「価値」や「欲望」のことを指しているようですが、これをしっかり理解するためには、まず美を感受する「人間の身体」というものの本質を理解する必要があるようです。

さらに、人間的な「価値」「欲望」とは何かをきちんと理解する必要もありそうです。

以下では、それらを説明して行きます。

人間の身体

人間の「身体」は、対象の「何であるか」を感覚器官によって単に知覚あるいは判断するのではなく、豊かな意味-価値の統一体として感知-感受する。

引用元:竹田青嗣著『新・哲学入門』(講談社現代新書)(講談社, 2022)

例えば、人間は視覚を通して対象、例えばリンゴ、の色形やその一般意味「果物」「食べ物」だけでなく、その自分にとっての意味や価値、例えば「美しい色形だ」「売り物になりそうだ」なども感受するようです。

つまり、私達の身の回りの認識対象は、客観的、一般的な物事であると同時に、自己の欲望や関心に応じた意味や価値をもつ物事として認識されるそうです。

逆に言えば、人間は、認識対象に対して、客観的、一般的な意味を読み取るだけではなく、主観的な意味、ある意味ではノイズを付け加えて把握してしまう生き物であるということになると思います。

恐らく、人間の感受性や感性または人間性にとっては、このノイズが重要になるのだと思います。

このノイズがないと人間は、単なる認知機械のような感じになってしまうようです。

なお、自然科学は、人間のこうした感知と感受の能力の本質を解明する方法を原理的にもっていないそうです。

つまり、私達は、「物理的な物質である「身体」が、なぜ特定の欲望や関心をもつ「心」を生み出すのか」を決して知ることができないそうです。

そして、この非知性は、「なぜ外界の生成や存在があり、また自己が存在するのか」を知り得ないのと同様に、原理的な非知性であるそうです。

さらに余談になりますが、この本によると、時間という概念は、人間がもつ記憶という機能にその起源があるようです。

欲望とは、価値とは、意味とは

価値」は、自己の心の中で、「対象が自己を引き付ける力」が生起することがその起源になるそうです。

また、「価値」はその全ての展開形態(つまり「意味」や「関心」など)の源泉になるようです。

そして、その本では、この心の中で(内的世界で)、対象に自己が引き付けられる「力」を「欲望」と呼んでいます。

ゆえに、「価値」は、私的な「欲望」から生まれるものということができます。

そして、「価値」は、この本では、対象への「欲望」の強さの度合いとして定義されます。

一方で、「意味」とは、欲望や関心に応じて生成される「対象に対する脳内での総合的な繋がりによる了解」のことを指すようです。

確かに、ある物事の意味が分かる時は、脳内のこれまでの経験・知識・記憶と繋げて、その物事を総合的・多角的に把握しているような気がします。

そして、個人の「価値」や「意味」を他者と交換し合うことで、対象に対する主観的な「価値」や「意味」は、客観的な・一般的な価値や意味になって行くそうです。

なお、価値は「人間の関係的な世界や生」にのみその根拠をもつそうです。

つまり、個人の人間的「欲望」は他者との関係性の中で決定されるということになるのだと思います。

以上のことからも、人間の客観性は、他者との言語的な意思の疎通によって生まれることが分かります。

哲学では、主観が先にあって、次に、言語的やり取りによって客観が生まれると考えるようです。

客観的な世界が先に存在していて、次に主観的な個人の意識・認識・内面が生まれるのではないようです。

主観的な表現である作品が、感受者(鑑賞者)の批評によって、客観性・普遍性を帯びて行くという過程は、ここに起源があるのかもしれません。

芸術・哲学・数学について考える

現代美術と哲学

村上隆著『芸術起業論』によると、アーティストの目的は人の心の救済にあるそうです。

これは、芸術は「人間の生」を支えるものであるという上述の主張と一致します。

ただ、現代美術家の村上さんによると、作品の価値を決めるのは、作品を通して伝えられる「観念」や「概念」であるようです。

これは、上述の「善きもの」「本当のもの」と確信された作品と対応が付くものなのでしょうか。

『新・哲学入門』では、「鑑賞者が打たれるのは、芸術が表現する理念によってではなく、それが表現される仕方によってである」と述べられているので、現代美術での作品の評価法と哲学が考える評価法は違うのかもしれません。

ただ、私が『新・哲学入門』から読み取ったことから考えると、現代美術は「人間の関係的な生」において新たな価値や意味を発見・探究しようとしているもかもしれません。

例えば、一般的・客観的な物事の中に、又は、一見何の意味や価値のなさそうな物事の中に、個人的な新たな意味や価値を見出し、それを「関係的世界」を生きる鑑賞者に上手く表現する・伝えることが芸術の面白さなのかもしれません。

そういう意味では、現代美術が重視する「観念」や「概念」も、また哲学が重視する「表現性」のどちらも大事なのかもしれません。

ただ、そもそも「表現性」とは、何なのでしょうか。インパクトのようなものでしょうか。

ちなみに、私が『新・哲学入門』から読み取ったことから考えると、芸術を鑑賞する際は、例えば次のような二項対立を念頭に置くと良いのかもしれません。

  • 一般 ↔ 特殊
  • 客観 ↔ 主観
  • 外界 ↔ 内界
  • 完全 ↔ 不完全
  • 機能的 ↔ 趣味的
  • 現実 ↔ 仮想・空想・夢
  • 目的 ↔ 空白
  • 理性 ↔ 本能・衝動・感性
  • 有用 ↔ 無用
  • 表面的 ↔ 背面的・背後・裏側
  • 労働 ↔ 遊び
  • 不可能 ↔ 可能
  • 陰 ↔ 陽
  • 本物 ↔ 偽物
  • 正義 ↔ 不義・欺瞞・軟弱
  • 責任 ↔ 自由
  • 義務 ↔ 権利
  • 組織 ↔ 個人
  • 物質世界 ↔ 精神世界
  • 矛盾 ↔ 整合・無矛盾・一貫性
  • 流動 ↔ 不動
  • 絶対・相対 ↔ 普遍・共通

人によっては、芸術は、「客観的な世界」(世間一般の世界)と「主観的な世界」のズレを埋め合わせてくれるものなのかもしれません。

この埋め合わせにより、人は救済されるのかもしれません。

また、人によっては、このズレが何物かを表現することの原動力になるのかもしれません。

なお、この埋め合わせは「善きもの」「本当のもの」と関係のあるものなのでしょうか。

なお、物理学的には、「差だけが意味(=力)を持つ」ということでしょうか。

数学的な美

以前の記事では、「数学者が数学をしていて感じる美」を扱いましたが、この数学的美はどのように説明されるのでしょうか。

人間には、「人間の関係的な社会や生活」における経験の諸感情を統合し、それを極限化したり、完全化したり、理想化する能力があるそうですが、やはりこの能力が数学的な美に関係しているような気がします。

つまり、極限化(モデル化)されていたり、完全化されていたり、理想化されている数学上の定理や証明などに数学者は美を感じているような気がします。

数学では、一見無関係なもの同士を繋げることに大きな意味がありましたが、芸術ではどうなのでしょうか。

芸術でも、組合せによる試行錯誤がなされているようです。

なお、研究の世界でも、組合せによる試行錯誤がなされています。ただ、組み合わせることが全てではありませんが。