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四柱推命

数学者の八字を研究する(その2)【四柱推命】

今回は、数学者のヒルベルトの四柱八字を研究してみたいと思います。

ヒルベルトの四柱推命

八字から分かること

ダーヴィット・ヒルベルト:男性:1862年1月23日13時00分:プロイセン王国領だったケーニヒスベルク(現・ロシア領カリーニングラード)生まれ:経度時差は恐らくほぼなし、均時差は約-12分。よって生時は約12時48分:金星人霊合星(申酉):

ヒルベルトの生年月日と生まれた時刻は、Astro databaseというサイトで検索しました。

ヒルベルトの八字(命式)は次のようになります。

  • 時 日 月 年
  • 丙 丁 辛 辛
  • 午 丑 丑 酉

小山内流の蔵干を採用すると、この八字は次のように書き換えることができます。

  •               通変での表示
  • 時 日 月 年       時 日 月 年  (比=比劫の略)
  • 丙 丁辛 辛       比 比財 財  (食=食傷の略)
  •  己 己         食 食   (矢印=剋の略)

対称的な八字です。数学者のラマヌジャンも対称的な八字でした。

「火」が「土」を生み、さらに「土」が「金」を生むという流れのある八字になっています。

日干の強弱の判断

まず、月支が己なので、この八字は土旺になります。

日干の丁は「旺(5)相(4)死(1)囚(2)休(3)」の「(3)」で強くも弱くもない普通の状態です。

また、時柱の丙と丁も「休」で並みの状態です。

ただ、丙は丁に通根しているので、強さがあります。

そして、強い「丙」が日干「丁」を扶(たす)けています。

また、この八字の「己」は「旺(5)」で旺盛(最強)です。

また、この八字の「辛」は「相(4)」で強いです。

さらに年干の「辛」は通根しているのでより強まります。

つまり、ヒルベルトは辛「財」の特徴がよく現れる可能性が高いです。

ここから日干の強弱の判断に入ります。

日干「丁」は上述のように「丙」に扶けられていますが、

月干の強い「辛」を剋(こく)しているので、力量をかなり減らします。

さらに、日干「丁」は日支の「己」に力量を洩(も)らします。

ただ、この「己」は既に最強で(十分に力量があり)、時支の「丁」からも力量を洩らされているので、日干からほとんど力量を奪わないかもしれません。

いずれにしても、総合的に判断すると、日干「丁」は身弱になると思います。

よって、大運では「火」と「木」が吉になります。

ヒルベルトの気質

日干に隣接する通変は、比劫食傷になります。

隣接する通変とは、日干の左右および下にある通変のことです。

この隣接する通変がこの人の気質に最も影響すると考えられています。

比劫のキーワード強い思い(強い意思・強い意欲)、しぶとい芯がある、不器用、苦労、浪費、異性運が弱い、拡大、分裂=孤立・自立・自己流・独学、他者意識(分離意識)、競争心、攻撃性、ライバル、奪う・奪われる、仲間意識(同化意識)、同志、一体化、共有、共生、協力進化(=敵(毒)を味方(薬)にすること、ピンチをチャンスに変える)、継続、存続、生存力、体力系・スタミナ、アスリート気質、努力、勇気・やる気・根気・元気・本気、(比劫が巡ると気が大きくなる)、他者との関わりがカギ(親や兄弟も含む)、吉凶混在。

食傷のキーワード自由な精神、行動力、表現力、対応力、サービス精神出力タイプ閃(ひらめ)きアイディア、創作、創意工夫、趣味、遊び心、技術、技、職人、手が器用、センス、美学、美意識、鋭い感性・直感・洞察力、子供っぽい、やりたい放題、言いたい放題、毒舌、言語系、思想系、商売、接客業、楽しみたい欲、ワクワク感で動く、自ら事を起こす(衝動性)、スピード(速い)、衝動性、考え無し、うかつ、不注意、無計画、怪我、せっかち、反射神経、(才能)発揮、(ストレス)発散、スポーツ・武術・音楽・演劇・美術・芸術、ポジティブ思考(前向き・楽観性・自発性)新しい価値観を生み出す、転職が多い、訴訟、社会の型や枠組みから外れる。

財のキーワード:現実的、計画的合理的、察知、感知、予知、先読み力、物事を円滑に回す能力、計算力、客観性、俯瞰力、観察力・分析力設計力システム形成(=仕組み作り・構造化・循環化・理論構築)、狩人、追求心、欲張り、成果主義、目的達成思考、逆算思考、効率主義、ビジネス、支配欲、コントロール欲、統治欲、所有欲・物欲、物質世界(人・物・金・情報)、気付く、気が利く、気遣い、気配り、ニーズの把握、大衆性、大衆ウケ、エンタメ系ユーモアがある、人を喜ばせる事が好きエンターテイナー、愛想がいい、辻褄合わせ、嘘つき、盗み、金銭問題=お金への執着、異性問題=異性への執着、目的のためには手段を選ばない、強引、負けず嫌いの強い性格、殺人、脳の報酬系(ドーパミン)。

これらのキーワードの内、どれが現実の事象として現れるかは分かりません(ただ、良い事象が現れるか悪い事象が現れるかは五行の強弱からだいたい分かることもあります)。

五行の強弱から考えると、「比劫」「財」「食傷」の良い面が現れる可能性が高いです。

なお、食傷と財が日干に隣接する方は、次の「外向き」の性質が現れ易いようです:

刺激を求める、行動力がある、革新的、未来志向。

年干の解釈

年干(=人生の方向性)が「」なので、ヒルベルトは「計算・計画された現実的な人生」になる傾向が強いのではないかと予想されます。

そして、年干「財」のキーワードは、「統治」「計画性」「システム形成(家庭・起業)」「円滑さ」「財」「目的達成」「エンターテイナー」などになります。

金の「財」なので、かなり合理的な感じになったり、美しい物を追い求める傾向が出るかもしれません。

火金の合理

この八字は金と火で占められているので、「火金の合理」の傾向が現れるかもしれません。

火金の合理 合理的、冷徹、論理的思考、整合性(矛盾がない)、筋を通す、

無駄がない、機械相手の作業が得意、理系向き

「火金の合理」を考慮すると、ヒルベルトが数学に興味を持ったのは、納得できるところです。

なお、「火」の五行には「数学」という象意があるようです。

ただ、「水」の五行にも「数学」という象意があるようです。

八字にない五行

この八字には、木「印」がないので、他者利用せず、自力で頑張る傾向が出る可能性があります。

また、水「官殺」がないので、団体行動が苦手だったり、組織の決まり事に従うのが苦手だったり、我慢することが苦手だったりするかもしれません。

最強の五行

この八字の最強の五行は、判断しにくく、火、土、金の3つが強いと予想されます。

火の病気:心臓、舌、目、血液系、循環器系(血液)、精神の安定性。

火のキーワード絶対的なもの(宗教・科学・法律など)を求める、頂点、君臨、絶対主義権威主義トップダウン型、宗教、縦社会(上下関係)、原理主義(=経験よりも原理・法則・法律・真理を重視)、原理・法則・法律・真理の応用(=応用力がある)、爆発力(短気、感情的、心臓=ポンプ、創造性、など)、集中力(熱中)、活力、活発、情熱、積極性、活動的、戦闘・闘争・戦い、アドレナリン、周囲を活性化(影響力魅力華やかさ、刺激的、1点からの拡大・拡散)、皆を照らす(=表舞台で注目を集める)、闇を照らす(=解明力がある)、自己中心的(=ややサイコパス気質=人を物のように扱うことがある)、排他的、移り気、飽き性、表現力、プレゼン上手、お喋り、恋愛。

土の病気、口、鼻、消化器系、皮膚、脂肪、筋肉。

土のキーワード信念の不変・不動(=一貫性)、頑固(融通が利かない、腰が重い)、均衡=バランスを保つ、恒常性(=一定の状態に保つ)、調節・調整、復元力(修復力・回復力)、保持・維持、保存、保守、中庸(中性的)、柔和、マイペース、安定感、安心感信頼・信用、現実主義(現実的な考え)、地道(コツコツ型、完遂力、反復積み重ね、中途半端が嫌い)、集める・守る・育てる、古いもの、古典、歴史的なもの、伝統文化、記憶、複合体、複雑系、単純と言うよりは複雑、全体性、全体、一体化させる、統括・統合・綜合・包括・司る、中央、要、拠点、器、基盤、母体、土台、安全地帯。

金の病気:肺、鼻、喉、呼吸器系、大腸、免疫系(免疫の過剰反応)、骨、腰。

金のキーワード正義美意識、美、審美眼、攻撃性(斬る、裁く)、番人(監視、見張り)、観察力・分析力、判断力(果断果決)、記憶、瞬発力、直感力、経験主義(=理論や定説よりも経験を重視)、ボトムアップ型、収斂(=洗練化精緻化整理整頓、凝縮)、加工=変形=技術系、無機的合理性(論理的)、割り切る(白か黒か)、クール冷徹さ、残忍性、過剰反応。

以上が八字から私が読み取れる極めて抽象的な情報です。

残念ながら、具体的な事象として何が現れるかは、なかなか分かりません。ご本人との対話が必要になります。

大運から分かること

ヒルベルトの大運は次のようになります。

  • 6  16 26 36 46 56 66 76 86(歳)
  • 庚  己  戊  丁  丙  乙  甲  癸  壬
  • 子  亥  戌  酉  申  未  午  巳  辰
  • 時 日 月 年       時 日 月 年     時 日 月 年
  • 丙 丁辛 辛       比 比財 財     丙 丁 辛 辛
  •  己 己         食 食 財     午 丑 丑 酉

そして、小山内流の蔵干を採用すると、大運は次のように書き換えることができます。

6  14 16 26 32 36 44 46 56 62 66 74 76 86

● ● 己  戊  戊  丁  丁  丙  〇 〇 〇 〇 ● 

● ● ●   辛  辛  庚  庚  〇 丁  丁  丙  丙  

ここで●には色々な意味があるのですが、例えば、自分の仕事が他者から認めれる可能性がある時期になります。

〇にも色々な意味があるのですが、例えば、独創性や才能(専門性)が発揮される可能性がある時期になります。

なお、●と〇の詳しい説明は、こちらのYouTubeをご覧下さい。

上述のように、ヒルベルトは、大運で「火」と「木」が巡ると五行のバランスが取れることが分かりました。

よって、56歳から85歳までは「火」や「木」が巡るので、体調面は比較的安定すると推命されます。

なお、36歳から55歳まで大運の天干に「火」が巡りますが、金旺の大運の「火」なので、弱い火になります。

それでも「火」が巡るので、比較的体調は安定する可能性が高いです。

しかし、実際には、ヒルベルトは63歳前後にペルニチア貧血(悪性貧血)を発症し、以降健康を著しく害しています。

ChatGPTによると、この発症は生来の体質というよりは、加齢に伴う自己免疫反応の亢進が主因と考えられるそうです。

なお、ペルニチア貧血は、現在では「自己免疫性胃炎」によるビタミン B₁₂吸収障害が原因とわかっているそうです。

つまり、ペルニチア貧血は、五行論的には、「金(=免疫系)」と「土(=胃)」の病気になると思います。

後付けになりますが、彼の命式の強い「金」が、火旺の大運の「火」と命式の「火」に剋されたことで、この病気が発症したのかもしれません。

つまり、彼の命式の「火」と「金」の絶妙なバランスが大運干支のせいで崩れてしまったのかもしれません。

なお、ChatGPTによると「ヒルベルトが生まれつき何らかの健康問題を抱えていた」という記録は見当たりまらないそうです。

また、幼少期から青年期にかけても、入学こそ8歳と少し遅めでしたが、学校生活や大学進学に支障を来すような体調不良の報告はなく、むしろごく普通の健康状態で過ごしていたそうです。

なお、ヒルベルトは81歳の時に肺炎のため逝去されています。

肺炎は金の病気です。火旺の大運で「火剋金」によって金の病気が発症したのかもしれません。

ただ、彼は63歳前後に健康を著しく害していますが、81歳までご存命だったので、当時としてはとても長生きだったことになります。

なお、ChatGPTによると、1935年頃のドイツにおける出生時平均寿命(男女合計)は約61.5歳であったそうです。

ヒルベルトの人生

ヒルベルトの年表

ChatGPT-o4-mini-highによると、ヒルベルトの年表は次のようになります。

なお、色が付いた年齢はヒルベルトが代表的な成果を出した年齢です。

1862年 0歳 1月23日、プロイセン王国東部ケーニヒスベルクに生まれる。
1879年 17歳 ケーニヒスベルクのギムナジウムを卒業。大学進学準備を終える。
1880年 18歳 ケーニヒスベルク大学に入学し、数学および物理学を学び始める。
1885年 23歳 ケーニヒスベルク大学にて博士号取得(論文「高次方程式の一般的解法について」)。同年、同大学の私講師に就任。
1888年 26歳 ヒルベルト基底定理の証明。任意の多項式環が整列環であることを示し、可換代数の理論に革命をもたらす。
1892年 30歳 5月に同僚教授カール・クレミーの娘カテ・イェロッシュと結婚。
1894年 32歳 第一子フランツ・ヒルベルト誕生。
1895年 33歳 ゲッティンゲン大学数学科の正教授に迎えられ、同大学が当時ヨーロッパ屈指の数学研究拠点となる礎を築く
1897年 35歳 ザール報告として知られる『代数的整数論に関する総説』をまとめ、代数的整数論を体系的に再構築。
1900年 38歳 パリで開催された第2回国際数学者会議にて、「ヒルベルトの23の問題」を提示し、20世紀数学の研究課題を提示。
1902年 40歳 著作『幾何学の基礎』第1版を刊行。幾何学公理系の体系化に大きく貢献。同年、英国王立協会フェローに選出。
1909年 47歳 アメリカ国家科学アカデミーの外国人会員に選出。同年、ゲッティンゲン大学数学研究所長に就任。
1912年 50歳 ドイツ数学会の会長に選出される。
1915年 53歳 『物理学の基礎』第1巻を刊行し、アインシュタインの一般相対性理論に対する数学的基礎づけを行う。幾何学的手法による物理理論へのアプローチを確立。
1921年 59歳 ヒルベルト・プログラムを提唱(数学を形式化し、その無矛盾性を有限的手法で証明する計画を打ち出す)。
1928年 66歳 ゲッティンゲン大学を健康上の理由で正式に退職し、名誉教授となる。
1933年 71歳 ナチス政権によるユダヤ人教授排斥政策に抗議し、特にエドムント・ランダウの解任に反対して連名声明を発表。
1943年 81歳 2月14日、ゲッティンゲンにて肺炎のため逝去。

6  14 16 26 32 36 44 46 56 62 66 74 76 86

● ● 己  戊  戊  丁  丁  丙  〇 〇 〇 〇 ● 

● ● ●   辛  辛  庚  庚  〇 丁  丁  丙  丙  

  • 時 日 月 年       時 日 月 年
  • 丙 丁辛 辛       比 比財 財
  •  己 己         食 食 

ヒルベルトは26歳から55歳まで●や〇が付かない時期が続きますが、その時期も代表的な成果を出しています。

●が付く25歳までに数学者としての基礎を身に付けておけば、以後もその基礎(経験)を基に数学者として活躍できるのかもしれません。

また、36歳から55歳までは火金の干支の大運が巡るので、「火金の合理」によって合理性・論理性・応用力が増し、数学の研究には良い時期になったのかもしれません。

また、26歳から31歳までの「戊戊」の大運も「食傷」が強まるので、才能発揮・アイディア・閃(ひらめ)きの時期になるかもしれません。数学者にとっては良い時期になるような気がします。

56歳から〇が付きますが、63歳前後の健康の悪化のせいで、数学の研究に集中できなくなってしまったようです。

ヒルベルトの性格・人柄

ChatGPTによると、ヒルベルトの性格や人柄は以下のようにまとめられるようです。

  • 時 日 月 年       時 日 月 年     時 日 月 年
  • 丙 丁辛 辛       比 比財 財     丙 丁 辛 辛
  •  己 己         食 食 財     午 丑 丑 酉

1. 楽観的・前向きな姿勢

  • 「我々は知る、我々は知らんとする」
    1930年、ヒルベルトはゲッティンゲン大学で行われた数学者会議において、「我々は知らねばならない。我々は知らんとする」という決意表明を残しました。この言葉は、当時ゲーデル不完全性定理の発表によって数学の「絶対的な確実性」が揺らいだ直後でありながら、自身は依然として「人間の理性と努力によって、いかなる謎も乗り越えられるはずだ」と信じ続けたことを示しています。学界でも名言として語り継がれ、ヒルベルトの前向きな気質を象徴するエピソードです(←―「火=絶対的なものを求める、原理主義、演繹的思考」です。「土=信念の不変不動=一貫性、頑固」です。「食傷=ポジティブ思考」です。)。

  • 研究・教育に対するポジティブなアプローチ
    ヒルベルトは「解けそうにない難問」を前にして決してあきらめず、むしろ「これこそ新しい時代の数学を切り開くチャンスだ」と捉えるタイプでした。1900年に提示した「ヒルベルトの23の問題」も、当時の数学界が直面していた諸課題を「未解決問題としてリスト化し、挑戦状を叩きつける」形で発表したものですが、その裏には「新たな未知領域を怖がるのではなく、あえて提示して研究を加速させよう」という彼の前向きな思いがありました(←―「比劫=強い思い、しぶとい、進化=ピンチをチャンスに変える」「食傷=ポジティブ思考」です)。

2. 教育者・指導者としての包容力と気配り

  • 学生や若手研究者への手厚い支援
    ゲッティンゲン大学で教授となってからは、クルト・ゲーデルやエミー・ネーター、エルンスト・ツェルメロ、オイラーらの業績を論じた数学者たちをはじめ、数多くの若手研究者を育てました(←―「土=集める・守る・育てる」です。特に「己」は教育に縁があるようです)。後年、ネーターは「ヒルベルトの研究所は、まるで大きな家族のようだった」と回想しており、ヒルベルトは年齢や性別、出身などにかかわらず、「優れた才能を歓迎し、伸ばす姿勢」を貫いていたことがわかります。

  • 誠実で温和な人柄
    同僚や学生に対して決して威圧的になることはなく常に丁寧で温かい言葉遣いを心がけていました(←―「丁=温かみ・ソフト・デリケート・繊細・敏感」らしいです)。ゲーデルが不完全性定理を持ち込んだとき、ヒルベルトは当初驚きを隠せなかったものの、論理的な正しさを認めるとともに、ゲーデルに対して「よくぞここまで深く考え抜いた」とねぎらい、むしろその功績を大いに賞賛しました(←―「金=正義・合理性・論理性」です)。これによりゲーデルは自身の成果を過度に恐れることなく、以後も自由に研究を続けることができたといわれています。

3. 知的好奇心と幅広い趣味

  • 音楽への深い愛着
    ヒルベルトは数学以外にもクラシック音楽をこよなく愛し自身でピアノを弾くこともしばしばありました。ゲッティンゲンの数学研究所には、ヒルベルトが趣味で弾くピアノが置かれており、講義の前後や研究者同士の歓談の合間に即興演奏を披露することもありました(←―「食傷=表現力・趣味・音楽・サービス精神」です。「金=美・美意識」です)。ある日、研究所の廊下でヒルベルトのピアノ曲が聞こえてきたため学生たちが集まって演奏に聴き入っていたところ、「君たち、早く次のセミナーに行きたまえ」と笑いながら声をかけたという微笑ましいエピソードも残っています。

  • 文学や詩にも親しむ
    数学書の出版準備中、ヒルベルトがふと立ち止まって詠んだドイツ詩や、難解な論文を読む合間にシラーやゲーテを読んでいたという話もあります(←―「丁=文学」という象意があるようです)。ゲッティンゲンの応接室にはしばしば詩集や小説が積まれており、訪問客を招いて数学以外の話題――例えばシラーの詩の一節や、ゲーテが描いた風景描写――を語り合うことも珍しくありませんでした。これらは彼が「単なる数学者ではなく、人間としての奥行きを持った人物」であったことを示しています。

4. 謙虚さとユーモアセンス

  • 「証明し終えた後の第一声」
    ヒルベルトが重要な証明を終えた際、しばしば「さて、これで我々も一歩前に進めただろう」と、あえて冗談めかして落ち着いた声で表現したといいます。彼の講義を受けた学生のひとりは、「教室の空気が一瞬にして張りつめ、成功の高揚感を感じた直後、ヒルベルト先生がニッコリ笑って冗句を口にしたため、皆がフッと肩の力を抜いて微笑んだ」と回想しています。こうしたさりげないユーモアが、学生たちの緊張をやわらげ、学ぶ意欲を高める効果を生んでいました(←―「財=ユーモア・エンターテイナー・大衆受け・気配り・気が利く」です。六星占術の金星人の性質と関係しているかもしれません)。

  • 権威を誇らない態度
    同僚の多くは「ヒルベルト先生」と呼ぶことを躊躇していましたが、本人はあくまで穏やかに「君」付けや「あなた」に近い柔らかい呼びかけで話しかけ、「難しい顔をして権威を示すことだけが教師ではない」と示していました(←―権威は「印」か「火」の象意だと思います。彼の命式には「火」が多いので権威的であってもおかしくないのですが…)。1920年代、ノルマルスクール(教員学校)から視察に来た教育者が「一流の大学教授としての威厳が足りない」と苦言を呈すると、ヒルベルトは「数学というものは、気軽に楽しめる一種の芸術でもある。威厳だけを誇っても、学生は本質を見失ってしまう」と静かに答えたと伝えられます(←―「食傷=自由な精神・子供っぽい・衝動性・美意識・センス」のためでしょうか)。

5. 意志の強さと使命感

  • ナチス政権下での反対運動
    1933年にナチスが政権を掌握し、大学からユダヤ人教授を追放しようとした際、ヒルベルトは仲間のエミー・ネーターやエドムント・ランダウらユダヤ系数学者を守るため、教授会で強く抗議しました(←―「土=集める・守る・育てる、保守、維持」です)。結果的にヒルベルト個人の影響力には限界があり、何人かは国外追放されましたが、彼は最後まで抵抗の意思を貫き(←―「土=頑固・一貫性」です。「比劫=しぶとい・強い思い」です)、「学問に人種差別を持ち込むわけにはいかない」と声を張り上げ続けました。この姿勢は、学問に対する強い倫理観と責任感を示すエピソードとして広く知られています。

  • 病床でも研究をやめなかった
    晩年に健康を害し、入退院を繰り返す中でも、ヒルベルトは筆を置きませんでした。1943年に腸を患って寝込んだ際、主治医が「もう休まなければ命にかかわる」と訴えても、枕元にノートを置いて新しいアイディアを書き留めようとし続けたといいます。最後まで「数学の探究心を失わない」という不屈の精神は、彼の研ぎ澄まされた意志の強さを象徴しています(←―「比劫=強い思い・芯がある・しぶとい、継続」です。「食傷=アイディア・閃(ひらめ)き・生み出す」です)。

6. 社交的だが、プライベートは控えめ

  • 学内外のセミナーでの気さくな交流
    ゲッティンゲン大学の数学セミナーでは、ヒルベルトが中央に座り、学生も教授も入り乱れて議論を交わす光景が常でした(←―「火=注目を集める」「火=お喋り」です)。あるとき、外国からの訪問者が初めて参加した際、ヒルベルトは「どうぞ、我々と同じテーブルでコーヒーでも飲みながら意見を聞かせてほしい」と率先して招き入れ、そのまま長時間にわたる熱心な議論が続いたという話があります。こうしたオープンな学術交流の場をつくり出せる人物は多くありません(←―これも火の性質なのかもしれません。「火=活発、周囲を活性化、お喋り」「土=集める」です。「財=社交性」です)。

  • 家族のことをあまり公言しない一面
    一方で、自宅に戻ると人一倍シャイになるという側面もありました。妻カテとの間には3人の子がいましたが、子どもたちに数学を無理に教え込むことはせず、むしろ家庭では家族とヴァイオリン演奏を楽しんだり、庭仕事の世話をしたりと、学者らしい「オフ」の時間を大切にしていました。このように、仕事と私生活をはっきりと切り分け、「家庭ではあくまでも普通の父親」であろうとした控えめな一面も知られています。

    一人息子フランツの精神障害:ヒルベルトには1894年に生まれた長男フランツがいましたが、彼は知的障害を伴う精神的問題を抱え、成人後は定職にもつけず、度々入退院を繰り返していました。1930年代にはフランツの症状が悪化し、パラノイア(偏執病)に苦しむようになったため、家族全体が深刻なストレスを抱えました。ある書簡によれば、ヒルベルト自身も「親として何もしてやれない無力感」から深い悔恨を感じていたといいます。学究肌の人格ゆえに「家庭の事情を公に語らない」面が強く、周囲にはあまり相談しなかったものの、内心では家族問題に苦しんでいたことがうかがわれます(←―「丙」には自分の弱い部分を見せないという性質があるようです。また、「印=他者利用」ですが、彼は「印」がないので、自力で頑張る傾向が出るのかもしれません。なお「辛=辛い、障害」が家系を表す年柱にあることが気になりました)。なお、こうした事情は彼の研究活動には直接の影響を与えたわけではありませんが、精神的には大きな負担であったとされています。

7. 批判・人物的欠点

  • 「愚か者」に対する辛辣な態度

    いくつかの文献によると、ヒルベルトは「愚か者を好まない」性格があり、研究所を訪れた者や議論の相手に対してしばしば辛辣なコメントを投げかけたと伝えられています(←―「火=絶対的なものを求める、頂点、君臨、権威主義」です。「金=攻撃性」です)。特に、1910年代から1920年代にかけて、当時ゲッティンゲンに集まった多数の若手数学者の中には「ヒルベルトは少しでも的外れな疑問を呈すると即座にあしらってしまう」「質問を躊躇させるような雰囲気を持っていた」と証言する者もいました。こうした点は教育者・指導者としての側面とは別に、「卓越した才能ゆえに他者に対して厳しすぎる」という欠点として挙げられています(←―金の「攻撃性」が出たのかもしれません)。

  • 教授としての権威への批判

    ヒルベルトはゲッティンゲン大学で絶大な権威を誇りましたが、その態度を快く思わなかった同僚や学生も一部に存在しました(←―「火=権威主義、頂点、君臨、上下関係」のためでしょうか)。1920年代、教育視察団が「大学教授にはもう少し威厳ある説教や講義態度が求められる」と苦言を呈した際、ヒルベルトは「数学は権威に基づくものではなく、論理と証明の質こそが重要だ」と自説を譲らず、大学当局からも「若手保護や学生への配慮が足りない」と注意を受けたことがあったと伝わります(←―彼は「官殺」がないので、組織の意向に背く傾向が出たのかもしれません)。実際、ある教育委員の手記には「ヒルベルトの講義は高度すぎる上、時折冷淡な態度が学生の心をつかまなかった」との記述があります(←―火には「自己中心的なところ」や「ややサイコパス気質」があると言われています)。

ヒルベルトの子供時代

ChatGPTによると、ケイシーの子供時代は次のようになるようです。

  • 6  14 16 26 32 36 44 46 56 62 66 74
  • ● ● 己  戊  戊  丁  丁  丙  〇 〇 〇 
  • ● ● ●   辛  辛  庚  庚  〇 丁  丁  丙 
  • 時 日 月 年       時 日 月 年     時 日 月 年
  • 丙 丁辛 辛       比 比財 財     丙 丁 辛 辛
  •  己 己         食 食 財     午 丑 丑 酉
  • 家庭環境と家族構成
    ヒルベルトは1862年1月23日にプロイセン王国東部のケーニヒスベルクで、郡判事だった父オットー・ヒルベルトと、商人の娘で哲学や天文学、素数に関心の深かった母マリア・テレーゼのもとに、最初の子かつ一人息子として生まれました(←―「財=父」ですが、確かに彼の命式の辛「財」は得令を得ていて強いです)。彼が6歳のときに妹エリーゼが生まれ、以後、厳格な父のもと、毎日同じ道を歩くなど規則正しい生活を送る家庭で育ちました

  • 幼少期の教育と学校生活
    当時のケーニヒスベルクでは通常6歳で学校を始めますが、ヒルベルトは母による家庭教育を受けた後、8歳で名門・ロイヤル・フリードリヒスコレギウムの初等課程に入学しました。ここはラテン語・ギリシア語を重視し、膨大な暗記学習が中心で、数学は二次的扱いでした。本人も後年「当時は鈍く愚かな子どもだった」と述懐しているように、この時期は学業において目立った成績を残せず、やや不本意だったようです。

  • ウィルヘルム・ギムナジウムでの飛躍
    1879年秋、ヒルベルトはより理数系に力を入れるウィルヘルム・ギムナジウムに転校。同校では「オリジナルな思考を奨励する」教育スタイルのもと、生徒たちが自ら問題解決に取り組む授業が行われました。ここでヒルベルトは数学に対する「生き生きとした興味」と「鋭い理解力」を発揮し、最終成績で数学は最高評価を受けています

中学時代

  • 入学時期と背景

    • 1872年(10歳頃)に、ケーニヒスベルクの名門ラテン校であるFriedrichskollegiumの下部課程に編入。なお、通常6歳入学のところを8歳まで母親の家庭教育を受けてからの入学でした。

  • 学業成績・性格

    • 国語(ドイツ語)の作文は必ずしも得意ではなく、母親が代筆したこともあったと言われます。

    • 一方で、数学の問題になると「先生に自分なりの解き方を説明して見せる」など、早くから抜群の問題解決力と論理的思考を発揮。クラスメートや教師の間でも「数学の質問ならヒルベルトに聞け」と評判だったようです(←―「火=法則・原理の応用力=演繹的思考」であり「金=合理性・論理性、帰納的思考=法則性を見つける能力」です)。

  • 全般的な印象

    • 当初は新しい校風に馴染めず「不幸な時期」だったものの、周囲の勧めもあって後により理数系に適した学校へ転校を決意しました(←―「水=適応能力・柔軟性・臨機応変」ですが、彼の命式には確かに「水」がありません)。

高校時代

  • 転校と学習環境

    • 1879年(17歳頃)、より理数教育に力を入れるWilhelms-Gymnasiumに転校。ここでの最後の1年間が、高校(ドイツでいうAbitur直前課程)にあたります。

  • 学業成績・評価

    • 他教科はごく平均的だったものの、数学では常に秀逸な成績をおさめ、担任の数学教師フォン・モルシュタインから「徹底した知識と、自分の方法で課題を解く能力」と高く評価され、卒業時には最高評価を得ています(←―「比劫=独学・自己流」です)。

    • ヒルベルト自身も後年、「学校ではあえて数学に多く時間を割かなかった。なぜなら、『後で自分の道でやる』と確信していたからだ」と振り返っています(←―「比劫=独学・自己流」です)。

ヒルベルトの業績

ChatGPTによると、ヒルベルトが数学者として高く評価されている理由は、次のようになるようです。

  • 時 日 月 年       時 日 月 年     時 日 月 年
  • 丙 丁辛 辛       比 比財 財     丙 丁 辛 辛
  •  己 己         食 食 財     午 丑 丑 酉

1. 問題リストで道を示した ― 「ヒルベルトの23の問題」

  • 何をしたの?
    1900年、ヒルベルトは当時数学界が手つかずだった23の難問をリストアップしました(←―金の「整理整頓」の特徴のためでしょうか)。

  • なぜ凄いの?
    これによって「今、世界中の数学者が何に取り組めばいいか」が一目瞭然になり、20世紀の数学研究が一気に加速しました。

  • 例えると?
    未舗装の山道ばかりだったところに「ここから先はこの道を進め!」と標識を立てたようなものです。

2. 幾何学をしっかりと組み立てた ― 『幾何学の基礎』

  • 何をしたの?
    古典的なユークリッド幾何学の“当たり前”をすべて洗い出し、最小限の「公理(前提ルール)」だけで形を立て直しました(←―「火=演繹的思考=公理主義」のためだと思われます)。

  • なぜ凄いの?
    あいまいだった「点や線とは何か」という部分を厳密に定義し直し、以後の数学を「砂の城ではなく、鉄筋コンクリートの建物」のように頑丈にしたのです(←―「金=洗練化・精緻化」のためでしょうか)。

  • 例えると?
    家を建てるとき、土台や柱の素材や位置をすべて図面に落とし込んでから作るように、数学の“設計図”を初めてきちんと描いた作業です。

3. 代数の世界を変えた ― 「ヒルベルト基底定理」

  • 何をしたの?
    多項式(例えば x2+y2−1のような式)の集まりでできる「イデアル」というしくみを調べ、「どんな組み合わせでも必ず限られた“元”で全体を表せる」と証明しました。

  • なぜ凄いの?
    これにより、代数(文字式を扱う数学)の“整理整頓”が可能になり、以後の暗号理論や符号理論、さらにはコンピュータ代数学の基礎になりました(←―金の「整理整頓」の特徴のためでしょうか。「金=無機物=白か黒か(=0か1か)=コンピュータ」とこじつけることもできます)。

  • 例えると?
    どんな長い手紙も、決まった数枚の「定型文」と「組み合わせ方」のルールだけで再現できるとわかったようなものです。

4. 新しい分野を育てた ― 関数解析と積分方程式

  • 何をしたの?
    関数(変数に応じて値が変わる式)を「ベクトル」とみなして扱う考え方を整備し、積分方程式(関数を積分した中に自分自身が現れる方程式)の理論を完成させました(←―「財=システム形成=理論構築」です)。

  • なぜ凄いの?
    これが物理学・工学の波動・熱伝導・量子力学などを数学的に支える“道具箱”となり、現代の科学技術に欠かせない分野を一から構築しました(←―「食傷=アイディア・閃き・生み出す」、「火=創造性・爆発力」です)。

  • 例えると?
    関数を「無数の矢」と考え、その集まりを「矢筒」として整理し直すことで、今までバラバラだった関数の扱いに一貫したルールを与えたイメージです(←―「金=整理整頓・洗練化・精緻化・合理性・論理性」のためでしょうか。「土=統合=接着剤的な役割」も関係しているのかもしれません)。

5. ゲッティンゲン大学を世界一に育てた ― 教育者・リーダーとしての手腕

  • 何をしたの?
    ドイツのゲッティンゲン大学に名声ある研究所を設立し、世界中から優秀な若手研究者を集めました←―「土=集める」です)。

  • なぜ凄いの?
    その環境下でクルト・ゲーデルやエミー・ネーターといった後の大数学者たちを育て、数学界の中心地をつくり上げたのです(←―「土=集める・守る・育てる」です。「土=拠点」です)。

  • 例えると?
    スポーツの名将が強豪チームを作り上げ、チャンピオンを次々輩出するようなリーダーシップを発揮しました。

6. ヒルベルト・プログラムの提唱

何をしたの?

  • 数学を「公理とルールだけ」で書き直した
    あらゆる定理や証明を、言葉や図解ではなく「公理+推論規則」という記号のルールだけで組み立て直しました(←―「火=演繹的思考=公理主義」)。

  • そのルールに「絶対に矛盾がない」ことを証明しようとした
    いわば「1+1=2」と「1+1=3」が同時に成り立たないよう、数学全体の安全装置を理屈で組み上げようとしたのです(←―「火=絶対的なものを求める」、「火・金の合理=整合性・論理性」)。

  • しかも「矛盾がないことの証明」も簡単な計算手順だけで行う約束
    矛盾をチェックするために、また新たな高度な方法を使うのではなく、最後まで“手順通りの機械的操作”だけで済ませるというルールを自らに課しました(←―「金=無機的=機械的」)。

なぜ凄いの?

  • 数学の土台を「鉄筋コンクリート」に変えた
    あいまいさを徹底的に排除し、「本当に安全・確実な設計図」を描いたことで、以後の数学・論理学の信頼性が飛躍的に向上しました(←―「財=計画性・設計力」です)。

  • 証明論や計算理論の源流になった
    このアイデアを出発点に「公理系の証明構造を解析する証明論」や、「計算の限界を調べる計算可能性理論」が生まれ、やがてコンピュータサイエンスの基礎を築きました(←―「金=無機物=白か黒か=0か1か=コンピュータ」とこじつけることもできます)。

  • 現代の自動証明やプログラム検証技術につながる
    「手順通りにやれば絶対安全」という考えは、今のプログラムのバグ検知や暗号プロトコルの安全証明など、実用的な技術の土台にもなっています(←―「火=絶対的なものを求める」、「土=信頼・信用・安心感」です)。

例えると?

  • 「レシピを完全マニュアル化」
    ただ料理の材料と「適当に混ぜる」で済ませるのではなく、

    1. すべての材料を細かくリスト化し、

    2. いつ・どの順番で・何分混ぜるかを厳密に書き、

    3. そのレシピ自体に「火事も食あたりも絶対起きない」安全保証をつけ、

    4. さらにその安全保証のためのチェック方法も、また別の複雑な技術ではなく「包丁で切って混ぜるだけ」の単純ルールで完結させる——
      そんな徹底ぶりがヒルベルト・プログラムのイメージです。

最終的には…

  • ゲーデルの不完全性定理によって「完全にこの計画をやり切るのは無理だ」とわかったものの(←―「財=計画性・設計力・目標達成思考」です)、

  • **「数学をルールで厳密に扱う」**という考え方そのものが、証明論や計算理論、コンピュータサイエンスの基礎になり(←―「土=土台・基盤」です)、

  • 結果的に今も私たちの身の回りにある「プログラムの正しさを確かめる技術」などに大きく貢献しています。