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「教養」を絵で描くと、どう描けるか?

今回は、「教養」という言葉のある解釈を紹介し、私なりに「教養」を可視化してみたいと思います。

「教養」とは

「教養」という言葉は、人によって様々な定義・解釈がなさせて来た言葉の1つであると思います。例えば、以下のような視点から「教養」という言葉は定義・解釈されているようです。

  • 歴史的な視点から
  • 伝統的大学教育の視点から
  • 現代的な視点から
  • 個人的経験に基づく視点から
  • 辞書的意味の視点から

この記事では、語源的な視点から、英文学者の奥井潔氏による「教養」の解釈・定義を紹介します。

奥井氏によると、「教養」は「culture」という英単語の訳語であるそうです:

 

明治の先人たちは、個人を単位として考える場合にはcultureを教養という国字に移し、社会を単位とする場合には文化という訳語を当てたのです。

引用元:奥井潔「大学入試 英文読解のナビゲーター」研究社出版

そして、奥井氏は「culture」の語源に立ち返り、「教養」という言葉を次のように解釈しています。

 

人間と呼ばれる一本の植物の生命力が、両親をはじめとする多くの他者に、また先人たちに助けられながら存分に陽の光に浴し、大地の恵みを吸い上げて、風雪をしのぎ、様々な障害を越えて、すくすくと成長繁茂し、ついにいま咲かせている花、いま結ばせている実りが、その人間の教養(カルチャア)なのです。別言すれば、その人間がいまこの世に存在することによって、その人が咲かせている花、実らせている果実によって、どのくらい周囲の人々や環境が、明るく豊かに、美しく変化するか、その過程が、その人の教養の程度なのです。教養とは、人間が長い時をかけて遂に身につけたポジティブな力、その人の言行から滲(にじ)み出てくる周囲を明るく豊穣(ほうじょう)にするのに寄与する力を言うのです。

引用元:奥井潔「大学入試 英文読解のナビゲーター」研究社出版

奥井氏による「教養」の解釈の特徴は、周囲の変化にまで言及していることです。

つまり、「教養」とは、身につけた個人のみを明るく豊かにする力ではなく、身につけた人が存在することによって自ずと周囲も明るく豊かに変えてしまう力であると奥井氏は解釈しているようです。

この特徴的解釈は、奥井氏による「文化」の解釈においても同様に見られます:

 

この木が存在することによって、周りの国々や環境が、どのくらい明るく美しく豊かに変化することになるか、その力こそ日本という国の文化(カルチャア)なのです。

引用元:奥井潔「大学入試 英文読解のナビゲーター」研究社出版

ここで「この木」を「日本」と置き換えて読んで頂けると、話が繋がると思います。

前述のように「教養」という言葉には色々な解釈の仕方があると思いますが、奥井氏による「教養」の解釈は分かり易く、私は大変気に入っております。

ただ、少し理想論的なところもあるかもしれません。

なぜなら、強力な教養を身につけた人が一人でも存在すれば、周囲は明るく豊かになってしまうので、争いなどは起きなくなるはずですが、実際にはそんなことはありません。

ゆえに、強力な教養を身につけた人はいないことになりますが、世の中には「高い教養を身につけた」として尊敬されている人は比較的たくさんいると思います。

「言葉を可視化する」とは

私は中学生の時に、国語の先生から「冬眠」というタイトルの詩を習いました。

その先生は以下のように黒板に丸を1つ書き、「これが草野心平の『冬眠』という詩である」と挑戦的に言いました(【注意】以下の挿絵は国語の先生が説明のために『冬眠』を模したものであり、原文とは丸の色、サイズ、配置、背景色、印象などが異なります。厳密には草野心平の詩集『天』に掲載された原文を参照して頂ければ幸いです)。

  

 

 

 

 

 

 

 

中学生の私は、素直になるほど面白いと思いました。丸一つで、確かに「冬眠」という言葉を的確に表している気がしました。

人間は冬眠しないので、冬眠がどんな感覚なのか本当は分かりませんが、この丸は「小さく丸まって外界を遮断し深い内なる世界に遠のいて行く意識」を表している気がします。

なお、この国語の先生は「面白いこと」をよく言う先生で、「あ」という字はなぜ「あ」と発音するのかを中学一年生に真面目に質問していました。

さらに余談ですが、「学問に目覚める」という言葉を私に教えてくれたのは、この国語の先生です。

話を戻すと、ここで私が言いたかったことは「言葉を可視化またはイメージ化すると芸術的で面白い」と言うことです。実際に、写真や絵などに面白いタイトルが付いているのを見たことがある人も多いのではないでしょうか。

「教養」を可視化する

それでは「教養」を可視化してみたいと思いますが、「教養」を可視化すると言うよりは、「教養」というタイトルを付けたくなる写真や絵は何かと言った方が良いかもしれません。

ずばり、私が「教養」というタイトルを付けたくなる写真は以下のものです。

 

大イチョウの紅葉

引用元:ブログ『紀伊半島のドライブと写真』の記事「丹生酒殿神社の大イチョウの紅葉」より

 

なぜ私がこの写真のタイトルを「教養」としたいのかを説明するために、もう一度、奥井氏の「教養」の定義を簡単に振り返ってみましょう:

 

教養とは、人間が長い時をかけて遂に身につけたポジティブな力、その人の言行から滲(にじ)み出てくる周囲を明るく豊穣(ほうじょう)にするのに寄与する力を言うのです。

引用元:奥井潔「大学入試 英文読解のナビゲーター」研究社出版

そもそも「教養」とは人間について述べたものなので、植物のイチョウを持ち出すのは違うのではないかと思われるかもしれません。

しかし、前述の長めの引用文の中では、奥井氏は植物を持ち出して「教養」を説明しようとしているので、植物で「教養」を表現しても良いと私は思います。

なお、奥井氏が植物を持ち出した理由は、「culture」の語源に「耕す、栽培する」という意味があるからです。

次に、上の定義文が「大イチョウの紅葉」でうまく表現されてることを説明して行きます。

まず、「長い時間をかけて」の部分は、「巨木」のイチョウで表されていると思います。逆に言えば、若いイチョウの木ではこの部分は表現しにくいと私は考えています。

また、「遂に身につけたポジティブな力」の部分は、大イチョウがまとっている無数の「黄金の葉っぱ」で表現されていると思います。

そして、「その人の言行から滲み出てくる周囲を明るく豊穣にするのに寄与する力」の部分は、大イチョウの周り一面に敷き詰められた「黄金の落ち葉」で表されていると思います。

植物の中でも大イチョウでないと、「教養」という言葉を表現できないような気がします。満開の桜も感動を与えるものですが、桜ではないと私は考えています。

なお、私が「大イチョウの紅葉」と「教養」のこの関係に気が付いたのは、大学生の頃だったと思います。雨の日に大イチョウのある公園を何となしに歩いていた時に、雨にも負けず光り輝いていた大イチョウの紅葉を見て、ふと、これこそが「教養」なのかもしれないと悟りました。

最後に、大イチョウの紅葉した落ち葉を掃除してしまったら、台無しになってしまいます。ゆえに、個人的には、大イチョウを管理されている方にはしばらく掃除を待って頂きたいところです。

理系研究者にとっての「教養」

理系研究者にとっても「教養」はあったに越したことはないものですが、たとえ「教養」があったとしても研究で成功できる訳ではないですし、「教養」がなくても研究では成功できるかもしれません。

理系研究者が「教養」を求められる時というのは、海外の研究者や学生と食事をしたり、海外の研究者や学生に日本を案内する時だと思います。

国際学会などでは、海外研究者と食事をする時間が用意されていたりするので、苦労されている研究者の方もいらっしゃるかもしれません。

日本人研究者同士では食事の時でも研究の話をしてしまうことがあるのですが、海外研究者の方との食事では研究以外の話をした方が良い場合が多いかもしれません。

海外の方との会話では、歴史、食文化の違い、国際的ニュース、スポーツ、映画、日本のアニメなどが話題になることがあります。

このような食事の場で、自然にみんなを楽しましてしまう人や自然に一人も退屈させなくしてしまう人は、やはり高い教養を身につけた方だと思います。

余談

なお、英会話が苦手な私は、絵を描いて海外の方と雑談することがあります。さすがに、冬眠を丸一つで表したり、「教養」を大イチョウの紅葉で表すことはありませんが、海外の方との会話・雑談では絵は便利です。

例えば、海外で髪を切ってもらいたい時、望む髪型のモデルの写真を見せて、この写真のような髪型にして下さいと言えば、言葉で髪型を指示しなくて良いので楽です。