今回は、アドラー心理学の本を読んで、アドラー心理学における本質的な事柄について考えてみたいと思います。
アドラー心理学の原理的なこと
アドラー心理学の基本は、岸見一郎(著)『アドラー心理学入門』(ベストセラーズ, 1999)に分かり易く書かれています。
本記事は、この本を参考にしています。
アドラー心理学は、アドラー*という名のオーストリアの精神科医の方が確立した「(問題を抱えてしまった)人の心を扱うための(勇気付けるための)処方箋」のことだと考えても良いのかもしれません。
*)アルフレッド・アドラー:1870年2月7日ー1937年5月28日、オーストリアのウィーン生まれ、精神科医、心理学者。
世界認識
アドラーによると、
「人は誰もが等しく同じことを経験したり、客観的な世界に生きている訳ではなく、自分自身の興味や関心に従って世界を意味づけ、そのようにして世界を認識している」
そうです。
このことは、哲学でも言われています。
つまり、同じ経験をしても、その経験をどのように解釈するかは、人それぞれであり、かなりの自由度があると言うことだと思います。
ある経験から真逆の解釈がなされることもあるようです。
例えば、ハンディキャップを持った方が、自分の人生を前向きに捉えるか(ハンディキャップをバネにするか)、悲観的に捉えるか(ハンディキャップに呑まれしまう)は、その方の解釈にかかっているようです。
良い解釈の仕方を見出せれば(意識化できれば)、世界の見方が変わる、現状を変えられると言うことになるようです。
なお、その本によれば、生まれ育った環境や状況そのものではなく、それをいかに解釈するかが、子供の成長を決めるそうです。
ライフスタイル(信念)
アドラー心理学では、「行動は信念から出て来る」と考えるそうです。
自立し、社会と調和して暮らすと言う適切な行動を取るためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないそうです。
ここで、信念とは、自己や世界についての意味付けの総体であり、アドラーは「ライフスタイル」と呼んだそうです。
大まかに言うと、ライフスタイルとは、信念、興味・関心、欲望、性格、気質、価値観のようなものを表す用語であるようです。
アドラーは、ライフスタイルは4、5歳で形成すると考えていたそうですが、現在では10歳前後ではないかと考えられているようです。
ライフスタイルは個々の体験の中で形成され、体験を繰り返す中で、自己や世界についての意味や価値(常識)を集積し、その集積が固定することになるそうです。
一度身に付けたライフスタイルはあまり変わることがないそうです。
不便でも慣れ親しんだライフスタイルで生きる方が、次に何が起こるかという予想ができるので、ライフスタイルを変えようとは思わないそうです。
ただ、人は不断に変わらないでおこうという決心を(無意識的に)しているのであり、そのような決心(無意識のこだわり)を上手く取り消せば、ライフスタイル(性格)を変えることは可能であるそうです。
そして、大切なことは、「自分という道具(気質・特徴)を(社会の中で)どうやって使いこなすか」であり、「自分に何が与えられているか」と言うことではないそうです。
例えば、自分の気質や特徴が活かせる「良い環境」を探し出すと言うのも、使いこなすことに繋(つな)がるのかもしれません。
なお、それまで「隠されていた性格(特徴)」が、何らかの体験、例えば、学校に入ることによって明らかになる、と考えるそうです。
つまり、自分の特徴や気質を知るには、色々なことを経験してみないと分からないと言うことかもしれません。
目的論
アドラー心理学では、「感情が原因で、行動が結果である」とは考えないそうです。
私達が感情をある目的のために使うのであって、感情が私達を後ろから押して支配するとは考えないそうです。
感情は、多くの場合、相手にこちらの言うことを聞かせようと言う様に、相手を動かすために使うのだそうです。
例えば、怒りを使うと相手が言うことを聞くだろうと考えて、怒りをその目的のために創り出すそうです。
また、悲しみという感情は相手からの同情を引くために創り出すと考えるそうです(本当にそうなのでしょうか?)。
なお、一見したところ奇妙に(異常に)見える人(子供)の行動には、相手からの反応や応答または注目を目的したもの多いようです。
ゆえに、その様な行動には反応しない方が良い場合もあるそうです。
繰り返しになりますが、アドラー心理学では、感情・心・性格・ライフスタイル(信念)・病気・過去の経験・理性・思考と言ったものに私達が支配されるのではなく、それらを何らかの目的のために使う、と考えるそうです。
Bができない理由として挙げられるAが必ず人を支配する力を持つのではなく、全体としての私が任意の時点においてBをできない理由としてAを使うことを選択するそうです。
また、精神医学の世界では、「因果関係の見せかけ」がよく起こるようです。
「因果関係の見せかけ」とは、実際には何も因果関係のないところに、因果関係を見出すことです。
この「因果関係の見せかけ」のために、自分の行動の責任を他のものに転嫁することが可能になるそうです。
ただ、心理的なものは、実際には原因の特定が難しい場合が多いそうです。
アドラーによれば、いかなる経験もそれ自身では成功の、あるいは失敗の原因ではなく、ゆえに経験からショックを受けることもない、私達は経験によって決定されるのではなく「経験に与えた意味」によって自分を決めるそうです。
例えば、ある経験をトラウマであると見なせば、その経験がトラウマとなってしまうこともあるそうです。
アドラー心理学では、トラウマは人生の課題を回避するための口実に過ぎないと考えることで、心の問題を解決することもあるそうです。
このように人には自分の都合の良いように(つじつまが合う様に)、心の中でAという事象とBという事象を勝手に結び付けてしまう傾向があるようです。
ゆえに、心の問題において、問題の原因を追究することは、あまり意味を成さないこともあるようです。
原因よりは、何が目的なのか(どう成りたいのか、潜在的な欲求)をハッキリさせることの方が実際には役に立つことがあるようです。
そして、行動の目的(潜在的な欲求)が分かれば、いかに対処すれば良いかが分かるそうです。
「縦の関係」と「横の関係」
その本によれば、人が人と向き合う時、人には瞬時に自分が相手より上なのか下なのかを判断する傾向(習性)があるそうです。
つまり、人は「縦の人間関係」(上下関係)に敏感であるようです。
親が子供をほめると言う行為でさえ、この「縦の関係」を幼い時から刷り込む行為になるそうです。
アドラー心理学では、「縦の関係」は、精神的な健康を損なう最も大きな要因であると見なすそうです。
一方で、アドラー心理学では、「横の対人関係」を築くことを勧(すす)めるそうです。
なぜなら、対等な横の関係になって初めて人を援助し、協力し、勇気づけることが可能になるからだそうです。
それ以外の対人関係において人を援助することは不可能であるそうです。
頼まれもしないのに口出しや手出しをすることは、自分の優越感を満足させるだけの行動であって、相手を対等の存在とは見ていないことになるそうです。
共同体感覚
アドラーは講義や講演で専門用語を使うことを好まず、なるべく平易な言葉で議論をすることを好んだそうです。
しかしながら、アドラーが使う「共同体感覚」という言葉は、専門家にさえもなかなか伝わり難い言葉であったそうです。
「共同体感覚」とは、表面的には、社会適応や協調性もしくは社会貢献に近い言葉であるのようですが、幸福という言葉に繋(つな)がるもっと深い意味が含まれているようです。
アドラーによれば、共同体感覚こそが人類を救い、人が精神的に健康であるかをテストする唯一の妥当な方法であるそうです。
一方で、共同体感覚のダークサイドとして、社会通念の押し付け、協力の名のもとに強制、統制がなされる危険があるそうです。
アドラーは次のように述べているそうです:
人は一人だけで孤立して生きているのではなく、全体との関わりの中で生きている訳ですから、全くの私的な、あるいは個人的な意味付け(私的感覚)ではなく、よりコモンな(普遍的な)判断としての「コモンセンス」(共通感覚)を持つことが有用であり、重要である。
また、その本によれば、「共同体感覚」とは、
常に自分の事だけではなく、他者のことも考えられる、他者は私を支え、私も他者との繋(つな)がりの中で他者に貢献できていると感じられること、私と他者とは相互依存的であると言うこと、しかし、同時にそのことは決して自己犠牲的な生き方を善しとする考えでもなく、自分も他者に貢献ができていると思えること…、
と言うようなことを表すそうです。
また、「共同体感覚」という言葉には、自分のすることが全体と関わり合って、自分が全体に影響を与えている、という感覚(意味合い)が含まれているようです。
逆に、全体から自分が影響を受けるという意味合いも含まれてると思います。
その本によると、私達のしていることは何らかの形で全体に繋(つな)がって行くそうです。
また、「共同体感覚」には、それぞれに前進する人々が協力して全体として進化して行く、という意味合いも含まれているようです。
また、「共同体感覚」は、個人個人の感覚(性質)とは全く違う、全体としての感覚(性質)が創発することとも関係しているのかもしれません。
また、「共同体感覚」は、「教養」(culture)とも関係があるのかもしれません。
自分の事だけではなく、仲間へと関心を広げることが、結局は自分のためになるそうです。
仲間を認め、仲間と調和し、仲間のために貢献することを学べば、最終的には自分の幸福(人生の満足感)に繋がるようです。
ちなみに、共同体感覚を体得した人は、病気や死をも恐怖ではないのでしょうか。
おまけ:共同体感覚と協調性
上述の「共同体感覚」とビッグファイブ理論の「協調性」は、似ている部分があると思いました。
ブライアン・R・リトル (著)『自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義』によれば、
協調性の高い人は、「感じがいい」「協力的」「友好的」「支援的」「同情的」
という印象を相手に与えるそうです。
他者と協力する必要がある場合、協調性の高さが大事になるそうですが、一方で、協調性は成功との関連性が高くないそうです。
実際に、組織内での成功と一番関連性が低い性格特性が、協調性であるそうです。
ただ、協調性は、長期的な関係を維持するのに効果的であることが分かっているそうです。
また、協調性の高い人が築いている社会的な繋(つな)がりは、健康にいい影響をもたらすそうです。
また、協調性の高い人は、幸福感を味わっているそうです。
つまり、「共同体感覚」とビッグファイブの「協調性」には、協力(貢献)、長期的な人間関係、健康、幸福という共通の意味合いが含まれています。
なお、『アドラー心理学入門』によれば、人から受け取るだけでなく、人に与える(受け取ってもらう)ことが他者貢献に繋がるそうです。
つまりは、人から受け取るだけでは、人は幸福にはなれないと言うことのようです。
やはり、人にはバランスが大切なのかもしれません。偏っていては幸福になれないのかもしれません。
一見、偏って見えるような人でも、様々な視点から眺めてみると、実は絶妙なバランスが取れていると言うこともあるのかもしれません。
ちなみに、「競争」の対義語は「協調」です。「競争」だけでも「協調」だけでも人はバランスが取れないのかもしれません。
ちなみに、もしこの世に自分以外の人間が突然いなくなったとしたら、残されたその人は幸福にはなれないのでしょうか。
幸福よりも何よりも日々を生きることで精一杯になってしまうのかもしれませんが。